識字とはなにか?識字は、なんのために存在するのか?

識字とはなにか?識字は、なんのために存在するのか?

9月8日は、ユネスコの定めた「国際識字の日」です。これを記念して、9月5日渋谷で、SVAシャンティ国際ボランティア会、日本ユネスコ協会連盟ユネスコアジア文化センターの三者の共催による講演会が行われました。その一部で、私はカンボジアの多くのスライドとともに下記のようなプレゼンテーションを行いました。二部はカンボジアの参加者とのトークセッションでした。

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絵地図分析」とは、多様な体験を持つ参加者が、現場で実際に体験・経験したことをしっかりと議論共有し、それを小さな紙片に余すことなく書き出し、そしてそれを共通項によってそれぞれの島を作り、最後にはそれを共通項の新しいキャプションでまとめていく方法です。この方式によるとすべての参加者の体験や内なる声が見事に反映でき、全体の意見を短時間で知ることができ、多様な意見も見事にシェアーできるのです。そして完成した絵地図を分析しながら具体的なアクションプランを作成していくと、理念や観念から実践的な成果が生み出されていくのでした。

このメソッドを一番最初に行ったのは、ネパールで開かれた1987年の第1回識字教材製作ワークショップで、これは大きな成功を収めたので、私はこの方式をすぐにアジア・太平洋地域のユネスコの人材養成ワークショップで採用するように提言したのです。というのもアジア・太平洋地域は、多様性でも、独自性でも実に複雑な地域で、多様な価値観や文化や思想・宗教などをもっているので、会議やワークショップの全体のまとめは大変難しいものだったのです。

そこで、私はACCUの10数回のワークショップや図書開発の人材養成などには、すべてこのNP方式を取り入れましたので、この方式はュネスコ自身のアジア・太平洋地域のAPPEAL計画(すべての人々に教育を!)に大きな影響を与え、1989年からはユネスコもこの方式を正式に採用したのです。これによって全体の問題やニーズが短時間で把握できーこのデータマップをもとに、多様な識字教材を製作できる実践的なワークショップを行うことが可能になったのでした。

つまりアジア地域の、現場の複雑な課題や多様なニーズに合わせて、教材制作を行うときには、そのまとめや分析は非常に難しいものでした。特に英語力を通じてワークショップはすべて進行しますから、ある意味では英語の達者な専門家や、声の大きな専門家ばかりが大きな決定権をもってしまうのです。しかしこの方式によれば、すべての参加者の意見や欲求も、すべて活字化されて表現されていく、いわば非常に民主的な議論と参加と表現・分析によって、ワークショップが行われるようになったのです。こうしてアジア15か国が集まって、共同で識字教材を製作する、ワークショップを毎年開催しながら、多様な形態や内容を持った識字教材が数十点も共同作成されていきました。それは初めはすべて英語で作成されますが・・今日ではそれを各国は、自分の国の実情に合わせて翻案を練り、なんと今日では、数百種類の教材が世界中で使われる結果となっていきました。その言語数も50数言語にも及んでいます。

1997年、私はパキスタン政府の首相識字委員会で、JICAの専門家・アドバイザーとして、識字教育の推進を担当していたことがあります。そのとき、農村地域に住む大多数の未識字者(非識字者)である彼らの参加をどのように招来するか、どのように未識字者たちが、村の問題点の解決や識字教育の推進に参加していくかを模索していたのですが、この方式を思い切って採用してみたのです。パキスタンの農村に住む大多数の人々は、全く文字の読み書きのできませんでしたので、私は文字と同時に言葉による力や絵やデザインを大きく取り上げて、視覚的な形でもこの地図を製作したいと思いました。文字の書けない人々でも参加でき、楽しく理解できる表現を求めたのです。その試みは見事に当たりました。

ところで、世界中で人が毎日最もよく使う言葉は、一体何か、知っていますか? それは「わたし」という言葉です。そうです。すべての人間にとって、「わたし」という存在はこの世の中で一番重要で、一番大きな存在なのです。その「わたし」が今、社会のいったいどこにいるのか、そしてとりわけどのような位置を占めているのか、さらにはどこへ向かって生きたらいいのかを表現していくのが、絵地図の大きな目的と役割なのです。

一般的に、地図とは「全体の中で自分の置かれた位置を、そしてどう目的地についたらいいかを教えてくれるもの」です。みんなその地図を持てば、これからどこへどのようなルートを選択すればいいのか、そのためにはなにをしなければならないかが明白になってくるのですーこうした理由のために「絵地図ワークショップ」という新しい識字教育の方法が生み出されたのです。

これは1987年のことでした。ユネスコの協力の下に、ネパールで初めて開かれた「成人識字教材の開発専門家を対象とした国内ワークショップ」がユネスコアジア文化センター(ACCU)によって開催された時、当時、私はこの担当者でした。そのとき私の願いは、ネパールが現在、直面している深刻な問題やニーズをしっかりと把握した識字教材を製作したいというものでした。世の中では、問題点やニーズの把握の必要性が叫ばれる割には、それを体現した識字教材が非常に少ないのです。そのためには、ワークショップの全参加者たちが、山深いネパールの農村地域の炎天下の現場に実際にでかけて行って、五感や経験をフルに動員しながら真実の問題点や事実を知ることから始めたいと思いました。

つまり識字教材は,各国の教育官僚たちの机上から生まれるものではなく、天から降ってくるものでもありません。人々の切実な声や心が形になっていかなければなりません。 その頃、ネパールはまだ王政で、国内的には諸矛盾が噴出しているような社会体制でした。そこで私は、全参加者にNP(New Participatory Method)法という事実や実情に基づきながら、参加者全員によって認識し、まとめあげていく方法を採用してみたのです。それは私の個人的な体験から方式でした。それが今日の絵地図分析(Picture Map Analysis)PMAの始まりとなったものです。

人はだれでも、「わかりやすいもの、たのしいもの、役にたつもの」を心の底から求めているのですから・・・とくに知識や情報などが決定的に少ない未識字者にとっては・・・・・それ以来、私は、表現活動というのは、言葉や文字だけでなく、絵や記号やデザインなどすべてが多様に協力し合って全体を構成するものだと理解するようになったのです。そしてその中でも最も重要なことは、常に全員で実情や問題点を正確に把握しながらも、それを現実のプログラムとしてどのように作り上げていくかにも苦心し、それをインド、中国、ミャンマーラオスカンボジア、韓国、日本などの多数の教材制作ワークショップでも行った結果、さらにその地図に基づいたアクション・プランの絵地図を作りあげていくことができたのです。

こうした体験を、SVAシャンティ・ボランティアセンターが、現在、推進しているカンボジアでのコミュ二ティ・ラーニングセンターの活動にも採りいれていきました。その結果を、本日の「識字の日」に報告できるのは、誠に嬉しい限りです。これは、これまでアジアや太平洋地域の多くのスタッフや同僚たちと共同で生み出した方式ですから、これを必要とする現場に感謝をもって返していかなければなりません。なぜ、アジア地域でこうした絵地図分析ワークショップが大きな意味をもつようになったのか、その理由は簡単です。人はだれでも「自分」を育成してくれる教材開発には大きな興味や関心をもっていて、そしてその欲求を絶えず表現したいと願っている生き物です。それは識字者も未識字者(非識字者)も同じです。

カンボジアは、アフガニスタンと同じように、戦争や社会的経済的な理由によって、文字の読み書きのできない人々が圧倒的です。特にカンボジアでは、ポルポト時代の悪政によって知識や情報を敵視した過去もあり、農村地域では実に8割以上の人々が文字の読み書きはできません。しかし現代という時代は大きく変化しており、多くの人々は現代の多様な知識や情報から取り残されている深刻な状況となっています。そのためこの絵地図を使った方式で、カンボジアの農村地域で、参加者が主体となる絵地図ワークショップを何度も開催したところ、カンボジアの厳しい現実の課題と同時に未来や夢も次々と表現されていきました。絵地図には、カンボジアの農村地域には、トイレがほとんど無いために衛生状態は極めて悪く、雨季には不衛生な飲み水によって病気が蔓延していくことー自然の堆肥の作り方も伝統的に知らなくて高い値段の化学肥料ばかり使っていること、農業生産においては多様で有用な技術をほとんど知らないことなど、文字を通じて新しい知識や情報が入ってこないので、村はますます孤立して貧困になっていっていることなども突き止めていったのです。

ワークショップの主宰者は、たえずいい耳といい言葉を持ちながらファシリテーターとして機能しながら、参加者の中から読み書きのできる村人に協力を依頼し―そしてかれらの耳や口や手を通じて、未識字者と一緒に彼らの言葉を言語化、活字化し、表現していったのです。それを表現発表するとき全員が参加したのですが、村人たちがどんなに喜んだことでしょう。写真からでも彼らの誇りと満足感を知ることができます。そうです。文字の読み書きのできない人々は、いつもこうした教育ワークショップには、縁がなく全く疎外されていたのですが、いまや村の問題点やニーズなどに関しても、自分が主体になって言葉で語ることができたのです。絵で表現することもできたのですーこうした参加と喜びは、実に絶大でした。未識字者とは、「文字は読めないにしても彼らの言葉や体験は生きている」のです。体験した多くの人生や社会での「辛いこと、問題点、楽しみ」を生き生きと語り始めたのです。彼らは、文字が書けなくても、絵やデザインや言葉によってなんでも表現できる心からの喜びーそれは識字者になりたいという大きな叫びになっていったようです。

こうした絵地図分析は、グループで行うだけでなく、個人の内面を深く広く表現していく「わたしの人生プラン」というやり方でも行っていますが、特に現在の日本の小学校や中学校の学習現場でー<中国や韓国でも何度もこのワークショップが開かれました>この動きが広がっていきました。 2011年の3.11の大震災の2か月後、私は福島の被災地で行ったときの絵地図ワークショップの鮮烈な体験を忘れることができません。それは津波の被災者が、「私は絵をうまく描けません」といいながらも、大きな模造紙の上に、いきなりたった一本の線を大きく引いて、その上に小さな家をちょこんと描いて私に示して言ったのです。「これが流されていく私の家です」表現とは拙くてもその思いや感情は言葉以上に表現されていくものなのです。

こうした表現活動の下には、識字教育のこれからの多様な可能性が横たわっているのを感じます。つまり私たちの世界は、文字中心の世界ではなく、絵や写真やデザインなど視覚的表現、触覚的表現、音感的表現などありとあらゆるものが、人間同士の深いコミュニケーションを導き育てているように思うのです。そこで文字中心に行っていたNP方式から、絵や写真やデザイン、そして地図的な要素を採り入れて、絵地図分析(Picture Map Analysis)というユニークなメソッドを作り上げることができたのです。

識字教育とは、文字だけでなく絵やデザインなどの喜びや楽しさもともなったものであるべきです。社会の中で、最も深刻な貧困や諸矛盾の中で苦しんでいる人々の、多様な表現活動が今ほど必要な時期はありません。そして識字問題とは、途上国だけに存在するのではなく、実は私たちの国にも存在していることを知っておくべきです。それは、在日のマイノリティで苦しんでいる未識字の人々の存在と同時に、私たちの識字の内容や哲学についても、つまり私たちの識字はいったいどこへ向いているのでしょうか?なんのために文字を学び知識や情報を学ぼうとしているのか、そして私たちの知識や情報は、果たして現代の人々を豊かにし、幸せにしているのでしょうか? 読み書きができても、その識字の方向性が間違っているときには、社会や人生は破滅していきます。

かって、私が識字教育のアドバイザイーをしていた1998年5月、私はパキスタンの農村地域でノンフォーマル学校を二百校設立する式典に出席した時、教育大臣の口から次のような祝辞を聞いたのです。「今日、我が国には10数人のカディール・ハーン博士のような科学者が存在しています。彼らの努力によって今日、我々は素晴らしい科学技術を達成することができましたが、識字教育とはこのように科学技術の発展に大きく貢献するものでなければなりません。識字学校がますます増えることによって、我が国の核開発がますます進展していくことを心から希望するものです。云々」

私はこれを聞いて怒りが込み上げてきたのです。カディール・ハーン氏は、パキスタンの原爆開発の父とも言われる有名な科学者です。もし識字が核開発のような目的のために使われるものならば、その識字は完全に間違っているのではないか。」そして、すぐに私はその政治家が発言した識字に関して、「ヒューマン・リテラシー」という新しい識字の概念を考えついたのです。「識字は哲学や方向性を持たなければならないのでは、識字とはただ単に読み書き計算ができるかどうかの技術能力の問題ではなく、豊かな人間性を有し、普遍的な目的や内容をめざすものでなくてはならないのでは、人を不幸にし、人を殺す識字がこれまでの歴史でどれだけ推進されてきたことか、そしてそれは現在も続いていると。文字によって表現される知識や情報技術は、人間のありかた全体に真摯なる責任をもたなければならないのでは、識字とは人を生かし、争いをなくし、人間同士が信頼できる世界をつくるためにこそ存在すべきと。」 そう考えて、ひるがえって日本の厳しい現実を考えるとき、今の日本の膨大な文字や知識・情報・技術は人々が果たして幸せになるように使われているであろうかとも思えたのです。

そのため私は、「ヒューマン・リテラシー」という新しい識字哲学を書き始めたのでした。式典が終了しイスラマバードへ帰宅した日の夕方、パキスタンがインドに対抗して初の原爆実験をチャガイ丘、陵で行ったという知らせを聞いたのでした。識字教育とは、貧困や差別の中で苦しんでいる人々の幸せや豊かさを具体的に作りだしていくものです。

私たちは、カンボジアアフガニスタンパキスタンなどアジアの多くの貴重な体験から学びながら、それを世界に広げていくためにも、9月8日の「識字の日」が始まったきっかけを思い出すべきです。それは「軍事費を減らし、識字教育へ予算を回すように提言した「イラン国王の賢明な選択」であったと痛感するこの頃です。