敗戦を終戦と言い換えたのは外務官僚の造語だった!

ドイツのテレビ番組が日本の政府広報を揶揄して「国民をコントロールするのが非常に巧い」と述べていたが、これは確かにそうである。日本は、国民を徹底して管理する体制技術には非常に長けていて、批判や不満の目はいち早く切り取るのに余念がない。教育の現場でも同じように生徒たちの批判の目はすぐに摘み取られ多様な形のガス抜きが行われる。

そのためには言葉の言い回しや言い方を非常に巧にしたり、言葉自身を批判されないようにいろいろ苦心して造語する。そのため「その言い方はなんだ?」と内容よりも言い方を批判することが往々にしてある。それは国民性というよりも、マスコミや官僚体制の中からほとんどが生み出される。

2012年8月、興味深いNHKテレビの番組放映があった。それは「終戦ーなぜ早く決められなかったのか」という番組で、終戦にあたって態度を決し切れない政府の優柔不断の対応が映しだされていた。その対応の結果、数十万人を超える戦争の犠牲者が続出した。そのなかで、「終戦」という言葉に関して、「終戦」という言葉は「僕が考えた言葉だ」という一官僚の発言が気になった。

彼の氏名は外務省政務局長の安東義良氏で、かれは終戦という名称の造語について秘話を明かした。
「・・・・・言葉の遊戯ではあるけれど、降伏という代わりに終戦という字を使ってね。あれは僕が考えた。終戦終戦で押通した。降伏といえば軍部をえらく刺激するし、日本国民でも相当反響があるから、事実ごまかそうと思ったんだもん。ごまかすというと語弊があるけど、言葉の伝える印象をね。和らげようというところからね。まあそういうふうに考えた」というのである。

こうして国民は終戦という言葉に騙されることになった。日本は降伏し、惨めな敗戦を契したにもかかわらず、屈辱的なことを全く感じさせないように、いつの間にか自動的に「戦争が終わった」とでもいうような感覚で「終戦」という言葉を濫用して現在に至るのである。

これはこれまでにも、「一億総懺悔(ざんげ)」とか、「一億総玉砕」とか、国民の心や精神を鼓舞させたり、ひとつの感情にまとめあげてきたのである。ここには多様な批判や多様な解釈などは絶対に許さない風土環境があるが、これらを作り出しているのは、すべて官僚とマスコミの責任である。

昨年暮れ、「原発の収束」という言葉を一早くマスコミは発表したが、これは政府とマスコミが結託して作り出したもので大々的に宣言した。しかし、その当時、福島第一原発の1,2,3、4号機はまだ危険領域を脱しておらず、それぞれの炉心が重大な損傷や放射能排出が続いていたにもかかわらずにである。

とにかく、がむしゃらにでも終息宣言を行なって、民意の不安を軽減しようとの意図に見えるが、実は戦前の官僚が述べたように、「事実をごまかそうとした」のである。このごまかしこそがSPEEDIの時にも、文科省によって頻繁に行われたりしている。 

これらの言葉は国民を助けるための言葉では断じてない。国民を絶えず無知にして、国民を死の断崖に追いやっていく非情な造語国家と言えるのではあるまいか!政府とマスコミは恥を知れ!と言いたい。