パキスタンで舞台化されたされた孤独な狐ーコンキチ
コンキチの創作を書き始めたのは 1974 年、もう 40年前になりますね。当時、遊学していたド イツのミュンヘンにあるアパートの6階で、小雪が舞っているアルプスの方角を眺めながら、 ふと思いついて書き始めた寓話です。そのとき私は26歳、毎日、バイエルン州立図書館に通 っていました。そして人生を限りなく夢想していたのです。
その頃は、春になって暖かくなったら、ドイツから汽車で出発し、トルコの黒海を船で渡り、シ ルクロード経由でインドのシャンティ二ケタンの大学へ遊学を始めようと考えていたときでしたが、降 り積もる雪を見ているうちに、私はふと生まれ育った広島の山間部にある故郷の三次を思い出して いたのです。故郷にも、同じように今は雪が降っているだろうなと想像したとき、不意に雪の中 に一匹のキツネのイメージが浮かんできたのです。
「そうだ!キツネの物語を書こう!それは私自身の生き方を表現するものになるかも知れな い。そのキツネは、山の自然を破壊され、絶望感とともに、人間へのあこがれなど複雑な気持 ちを持って、人間に変身する―そして山を下り、会社人間となって夢中で働く人生。しかし、キ ツネを待ち受けていた人間世界とはいったいなんだったのか?
人間は生涯をかけて生きるために懸命に働く仕事の意味はいったい何か、人生とは?生活と は?幸せとは?私自身の人生を重ね合わせながら、1篇の創作に10年もの歳月をかけて 「コンキチ」の物語を書き上げてみたのです。この物語が初めて刊行されてから37年間に、ア ジア地域では28言語に翻訳されました。1999年にはオックスフォード大学出版からは英語 版で刊行されました。2001年にはドイツの第1回ベルリン文学祭で上演、日本では2004年 に語りが林洋子さん、劉宏軍さんの音楽によって、ホフマンさんの音楽とパジパイさんの舞踏 によって、そして2008年には日本・中国・韓国の3カ国共同の楽劇として能楽堂で演じられ た時には、参加者からは実に多くのメッセージを頂きました。
―「コンキチ」について。子ども向けのユーモラスなお話を勝手に想像していたのですが、とて もシリアスな内容だったんですね。最初は現代文明批評がこめられている作品なのかなと思 っていたのですが、進むにつれて、そんな図式的なことではなくて、人間がもっている普遍的 な問題、痛みに真正面からズンズン切り込んでいく運びに、息を呑んでしまいました。コンキ チは「あなたの街」にいるだけではなく、多くの人の中に、そして自分の中にも、いるのだとい う気がしました。それでいながら、そんな人間に対する深いやさしさを感じます。 ―何をかくそう。実は私もコンキチなのです。今日、気がつきました。私も親こそ殺した事はあ りせんが、子や孫を殺し続けるような現在のこの生活を続けています。本当に、みんなでこうした生活を変えていきたいと心から願っています。とても感動しました。
―どこを向いても私たちは、色々な意味の毛皮屋さんの恩恵にあずかって快適な暮らしをし ています。そして、もう後戻りができません。むなしく夜空に向かって鳴くしかないコンキチの 気持ちがそんなところにあるのかなあと・・・。いちばん大切なものを失いながら、社会に適応していく現代サラリーマンの悲しさを、おもしろおかしく手にとるように感じました。
21世紀に入って、人間は「生き物にとってかけがえのない自然」をどんどん失い「人間の心の 中にある自然」を平気で壊してしまっているような気がします。山や海や空は細胞のレベルか ら汚染され、無数の科学兵器が、おびただしく製造されて世界中へ四散しています。こうして 考えてみると、現代世界は石油やエネルギーをめぐっての血みどろの争奪戦など、広い世界 とは実に無数の「コンキチ」たちが働いているような気がしてきたのです。これはパキスタンの イスラマバードでコンキチの物語が 2000 年に舞台化されたときの体験談です。
<イスラマバードで演劇となった コンキチー孤独な狐>
コンキチ」の演劇の話しの発端は 1998 年のある日、パキスタンのイス ラマバードの首都県庁(CDA)で臨時職員として働きながら演劇活動 を続けていた28歳のアッサラオ君が、ウルドゥー語訳の私の「コン キチーさびしいキツネ」の作品を是非自分の演劇集団で上演したいと 言ってきたことから始まりました。
彼はこの物語を「自分の主宰している演劇集団で舞台化したい。そ のためには自分の手で脚本を書き、そして自分はコンキチの役をやり たい」と並々ならぬ熱意で訴えてきたのです。私は彼の真剣な態度に 驚くと同時に、彼の顔立ちがなんとなくキツネに似ているので、これ はひょっとするとおもしろい舞台になるかもしれないと快諾したのでした。パキスタンには一般的に余りおもしろい舞台がなく、もし このユ−モアにあふれしかも深刻な物語を上演できたら、ひょっとす ると国際水準の舞台ができるかもしれないと、彼の演劇活動を思いき り激励することにしたのです。
この物語のあらすじは、山の自然環境がどんどん破壊され、子ギツネ のコンキチは狐をやめて人間になろうと母に懇願するのです。すると 母親は「おやめ。コンキチ、これまでにもたくさんの子ギツネが人間 になろうと山を下っていったけど、誰も帰ってはこないんだよ。人間 たちがいい暮らしをしているとは思えない。」と説得したのです。 しかしコンキチは山を見限って、特別の術で人間になって、都会の会 社で働き始めるのです。ところがその会社は毛皮会社。ある日、会社 の倉庫で、自分の友だちがたくさん毛皮となってぶら下げられている のを見て大変な衝撃を受けるのですが、毛皮の在庫がなくなってくる と、社長命令で鉄砲をもって故郷の山へと向かっていくのです。そし て母を撃ち殺してしまうという悲劇です。(この作品は1995年に、 パキスタン国立図書財団から、国際交流基金の助成で、英語版からウ ルドゥー語で翻訳出版されています。アジアの国々では 30 言語に翻訳 されています。
しかしながら、ここはパキスタン。・・・・通常パキスタンでは単なる 話しや夢だけのことが余りにも多く、演劇活動の具体化というものを 彼が果たしてできるかどうか半信半疑だったのです。しかし同時に彼 を少し試してみたい気持ちもあったのです。 ところが驚くことに、 彼は2ヶ月後には自信にあふれた表情でウルドゥ語のシナリオを手書 きで書いて持参したのです。そのため私は早速友人のショーカットに コンピューターでウルドゥー語で打ち出してもらったのです。
ショ−カットは打ち出したシナリオを読みながら一言、「これは素晴ら しい!しかし・・・これを成功裏に上演するには、是非、パキスタン 国立芸術評議会の主催にした方がいい。」としきりに私に勧めたのです。 そこで早速、私はパキスタン国立芸術評議会の旧知のラスール会長に 公演依頼の手紙を送ったのでした。ラスール会長は日本で言えば文化 庁の長官にあたるような人です。
しかしそれから何か月たっても評議会からなんの音沙汰もなく、とき どきラスール氏にそれとなく聞いてみても、現在関係者で相談してい るというだけでした。私はこれはおそらく作品の原作がパキスタン社 会に合致していないか、あるいはアッサラオ君のシナリオの力不足な どがあって、彼らになんらの興味も起こさなかったのだろうと思って いました。一方、アッサラオ君は、「評議会の協力があろうとなかろうと関係ない。自らが書いたドラマを自らの手で舞台を取りし切りたい。」 と「さびしい狐」の主人公役―コンキチを演ずるリハーサルを始めたの でした。
そしてときどき我が家にやって来ては、大広間できつねの役を演ずる リハーサルを何度も繰り返すのでした。彼の声は、盗賊が住んでいる というマルガラ山に向かって響いていました。 「コーンコーン・・・コーーーーン、コーン・・コンコン・・・コー ーーーーーーン」
しかし彼の劇団は人から聞くところによると零細集団らしく、彼以外 に劇団員がリハーサルに来ないのには少し不安にも感じられたのです。 首都県庁に勤めていた彼はなにか職場の者とうまくいかなかったらし く、そのうち失職してしばらくはなにもせずに暮らしていました。し かし会うたびに彼はいつもコンキチの舞台のことを話しつづけていま した。
彼はパキスタン人の顔というよりは、トルコ系の血筋を引いたような 独特の風貌を持っていました。時々、彼は素晴らしい笑顔を見せたり、 急にニヒルな顔つきをしたり、あるいは思いつめたように話し始めた り、俳優としての才能を遺憾なく感じさせるような才能を持っていた のです。 彼の腹の奥底からしぼりだす声でマルガラ山に向かって鳴 くコンキチの声には、私も大いに感動したものでした。彼自身は、主 役のコンキチは、この世でかれ以外にはいないとばかり、彼のために こそこの舞台が用意されていると考えているように思えたのです。
半年のうちに、彼自身は余りにもこの演劇に没頭したので、ときどき 我が家に電話してくるときにも「アイアム コンキチ」といってしゃ べってくるのでした。 しかしかれのリハーサルをみているうちに、 彼は頭の中に余りにも観念的なキツネを作り出しているような気がし たので、彼に自然のキツネの性格を十分参考にしたほうがいいのでは ないかと進言し、一緒に近くの動物園にキツネを見にでかけたことも ありました。しかし、動物園のキツネは人間たちにおびえてとうとう 穴から出てきませんでした。それでもジャッカルや狸を見たりして勉 強に励んだのでした。
そのうち彼は仲間とリハーサルを行うために広いスペースを必要とし ているというので、またしてもショーカットに頼み、首都圏のある大 学の講堂を無料で毎週確保したのでした。そして第1回目のリハーサ ルを彼が開くというので、夕方その場所にでかけてみるとガランとし た大きな講堂で彼を交えて4−5人の演劇人が大声を出してリハーサ ルを行おうとしているところでした。
私は自分で書いた物語が舞台化されるので多少は喜びを感じていまし たが、 内心では私の物語が上演されようとされまいとそれはどうでも いいことでした。ただ彼が余りにも熱心にコンキチの舞台のことを話 したので、とにかくこうした舞台がこの国ではいったいどのように展 開してゆくのか、それに興味をもったのでした。
だだっぴろい講堂で行われたリハーサルは余りぱっとしたものではな く、夕方の闇の中に消えてしまいそうでした。ただ彼ひとりが薄暗く だだっ広い講堂のステージで、きつねの鳴き声を出して演技するのが とても印象的でした。しかし舞台化のための予算的な裏づけもなく、 また母親役など重要な配役も全く決まっておらず、彼の零細演劇集団 で果たして舞台化出来るかどうか、一抹の不安をこのリハーサルで感 じたのも事実でした。
そうこうしているうちに、ちょうど2000年9月25日の夕方、突 然ショーカットから電話が入ったのです。彼が息せき切って言うのに は「・・・・明日の晩、ラワルピンディのリヤカットホールで芸術評 議会の主催で「さびしいキツネ」の上演が行われことになった。」とい うのです。
「ええっ!いったいどういうことですか?」 私は大いに驚きながら、彼から事の仔細を聞いてみると、この舞台は パキスタンで広く演劇活動を行っている Dr.バカールギラ二という国 立演劇学校の代表の手によるものだというのです。彼はパキスタンで は著名な演劇人でテレビの連続ドラマなどでも大変な成功をおさめて いる人だと言うのです。ショウカット氏はとても喜んでいるように見 えるのです。
しかし彼らの舞台でのキツネのコンキチ役はアッサラオ君ではないの は確かです。ただ重大なことは、この舞台で数ヶ月前に評議会に依頼 文を送ったときに同封した彼の脚本が、なんの相談もなく勝手に彼ら に使われているように思われたのです。まさか国立芸術評議会ともあ ろうものが、我々になんの相談もなく公演を行うことはないと思い、 ショウカット氏には「もし、それが同じ脚本であるものなら、原作者 の私としてもそれは絶対に認めません。許可しませんからね。」と強い 調子で話しました。
それから私はすぐに評議会の事務局長であり著名な文化人としても知 られているファキ氏に電話して事の内容を調べてくれと頼みました。 すると彼は、驚いた声で「この舞台の内容や日程などはまだはっきり していないと思うので、大至急バカール氏と連絡をとってみるという のです。それで私もすっかり安心してアッサラオ君に電話をすると、 彼はいかにも安堵した様子でした。コンキチは彼しかできないと思っ ているのですから。
ところが翌朝のこと、 突然泣きそうな声でアッッサラオ君から電話が入ったのです。彼の友 人から電話が入り、今日の朝刊の広告に「明日、リヤカットホールで 「さびしいキツネ」の演劇が行われるという記事が掲載されていると 聞いたというのです。私もびっくり仰天し、すぐにNEWSという代 表的な英字新聞を調べてみると、確かに新聞の2面には「奇妙な狐」 というタイトルのドラマが評議会の演劇アカデミーの手で上演される ことが大きく新聞広告されているのです。「さびしいキツネ」というタ イトルはウルドゥー語では「奇妙なキツネ」という言葉に置き換えら れていたのです。そして国立芸術評議会の演劇学校が主催するという ものでした。
そこですぐにファキ氏に電話をすると、かれはすぐに当の責任者のバ カール氏を呼び相談したいからすぐに評議会に来てくれというのです。 私は我々を全く無視したかれらの海賊行為に心底より頭にきたので、 相談するというよりも評議会に抗議にでかけることに決めました。パ キスタンでいつも誰かが新しいアイデアを出すとすぐに誰かがそれを 盗んでしまう悪い習慣があり、かれらをそれをハイジャックすると言 っているのです。もちろんこの裏には著作権の問題や悲しんでいるオリジナルの作者がいるわけですが、国立文化財研究所のムフテイ氏は、 かって膨大な時間と労力をかけて製作したシルクロードの音楽テープ が2−3日間でコピーされてカラチの会社から売りに出され大変な損 失を被ったと嘆いていました。それだけに短気な私は「とにかくけし からん。とにかくけしからん!これでは本物のコンキチ役のアッサラ オ君の努力が無になって可哀相だ。」と思いました。
そこで私はこうした時には、普段着ではなくて、服装にも少々威厳も 必要だと思い、赤いネクタイと黒スーツ姿でびしっときめてでかける ことにしたのです。特に著作権とか権利の問題の時には、外国人にな るのが一番ですからね。そのときウルドゥ−語の大家の東外大名誉教 授の鈴木先生も我が家に滞在中だったので、事の仔細を先生に話し、 二人で一緒にネクタイをしてでかけることになりました。氏はアッサ ラオ君のウルドー語のシナリオを読んで賞賛していたこともあったの で、作品についてはいわばお墨付きともいえるものでした。
家から車で5分ぐらいのところに評議会の建物がありました。国立と はいえ古く煤けた 2 階建ての芸術評議会のファキ氏の部屋に入ると、 彼はいつものように実に愛想よく我らを出迎えてくれました。そして すぐに評議会の会長であるラスール氏とバカール氏とみんなで交えて 相談をしようというので、そこで皆なで 1 階のラスール氏の部屋に集 まりました。バカール氏とは初対面でした。彼の物腰は実にていねい でした。長身で鋭い文学者のような姿格好をしており、大きな目は輝 いていました。彼のアシスタントであるという中年の女性は才能あふ れた女優だということでしたが、とても上品そうに見えました。「うー ん、これはちょっとアッサラオ君の姿かっこうと随分違うなあ。」 と 思ったのです。
開口一番、バカール氏は静かな口調で、「あなたが書いた「コンキチー さびしいキツネ」の物語はとても感動的で素晴らしい。」とアッサラオ 君が書いたシナリオをみんなに見せながら、まず思いきり褒め称えま した。やはり彼らはこれをもとに演劇を開始しようとしていたのでし た。実にスマートに話し合いが始まったので、これではこちらが抗議 する暇もありません。しかし私は厳かな声で 「この作品の原作は私 が書いたものですが、シナリオはアッサラオ君が書いております。
私としてはこれまでコンキチーキツネの主役はアッサラオ君にしたいと 思ってきました。そして準備をしていたのです。」 と短刀直入に切り出したのです。すると彼はすぐに「わかりました。 今晩公演は行いません。今後はみなさんとゆっくり話しをしながら舞 台化を始めたいと思います。ついては皆さんと一緒にこの演劇のワー クショップをやったらどうでしょう?」と再び静かな口調で語りまし た。話がこちらの了承もなくどんどん進んでいくので「もちろん、ア ッサラオ君も交えてですね?」「もちろんです。」と彼は快諾したので、 私は彼の真摯な態度に感心し、それでは2日後にラワ−ルピンデイで みんなでよく打ち合わせを行いましょうということになりました。
2日後、ラワ−ルピンデイのリヤカットホールという大きな劇場の 中に位置している国立演劇学校に、イスラマバードからは、私と鈴木 先生、ショーカット氏(国立図書財団)と旧友であるシャー氏(出版 社経営)の4人で第1回の打ち合わせにでかけました。到着するとす ぐにバカール氏とファキ氏が我々を出迎えました。そして会長のラス −ル氏も我々を待っているというのです。いったいなにごとかと思い、 会長の部屋に入ると彼は大きな体で丁寧に挨拶し、鈴木先生もしきり にウルドゥー語の力を存分に試すかのように 流暢な挨拶を何度も繰 り返していました。
会長は明日からスリランカへ行くという忙しいときになんでわざわざ ここまでやってきたのかとも思いましたが、2階の演劇学校で最初に 挨拶をしたあとすぐに引き上げていきました。しかし彼らは内心では 評議会の演劇学校が行った海賊行為が大変気になっていたようです。 演劇学校の 2 階の広いリハーサルには才能があふれるような約25名 の若い男女の俳優が車座になって座っていました。未来の俳優を目指 すだけにかなり個性的な男優、女優が集まっていました。もちろんわ れらのコンキチ、アッサラオ君の姿もその中にありました。ここの修 了生であるという彼も、当然参加を呼びかけられたので、イスラマバ ードから中古のオートバイを飛ばしてやってきたのです。
それからバカール氏がこの物語と演出について丁寧に話をしたあと、 彼は私にもこの物語について演劇についての構想を話してほしいと頼 んできました。そこで私は、その昔、ミュンヘンの安アパートの屋根
裏部屋で書き始めたときのエピソードや物語の背景や大筋をていねい に話しました。するとみんな大いに感動したらしく、しきりに大きな 拍手をし、大きな花束まで贈呈してくれたのです。 いくつかの質問が始まりました。
「あなたはなぜキツネを主人公にしたのですか?」 「この物語であなたはいったい何を伝えようとしているのですか?」 「この物語では人間よりも動物が優れていることをいいたかったので すか?」 などなど。いろいろ変わった難しい質問もたくさんありま したが、私のわけのわからない感情のこもった英語の話し振りになん だか十分に納得している様子でした。
それからバカール氏が自信たっぷりに この舞台の構成と演出につい て話し始めると、突然アッサラオ君が立ち上がって 「いや、僕の考 えは全く違います。この舞台はこうでなくてなりません。こうでなく ては?」 と彼の描いた舞台のスケッチの上に、新しいスケッチを書き加え始め たのです。
バカール氏はいかにもこれを苦々しそうに見つめています。「うーん、 これではなかなか先が思いやられるな。二人のコンキチのイメージは 全く違うのだからな。どういうようにこれから調整しよう?」と考え ていると、バカール氏がコンキチ役に決まっている若い個性的な男優 に演技を始めるように指示したのです。バカール氏は、彼らの俳優の 演技を見せれば我々もすぐにそのレベルの高さに気付き納得するとで も思ったのでしょう。自信ありげにコンキチ役が舞台に登場し、さあ 演技が始まったのです。 それはコンキチが会社員となり働き始めたときのシーンでした。しか しかれの演技は大声を出して泣き叫ぶものの、いかにもステレオタイ プでなんの感動も感じさせない表面的なものでおもしろいものとは全 く思えませんでした。そこで私はアッサラオ君に 「さあ!君の出番 がやってきた。思いきりやりたまえ!本物のコンキチの出番だ」と肩 をたたきました。
アッサラオ君の演技は期待していた通り、オリジナルの原作に書かれ たコンキチの存在にリアルに迫ると同時に、今彼が置かれている絶対 絶命の立場もよく表現していました。ですからこの真剣さがみんなに も伝わっていきました。もっともこの演技をする前に、アッサラオ君 に「いいかい、あまりしゃべらず、沈黙と動きでコンキチを演技した ら。」と伝えていたのです。
パキスタン人の俳優は余りにもしゃべりすぎますから。しかしどちら の配役を最終的に選択するかはなかなか微妙な問題でした。原作者で ある私の意向を貫くか?あるいは演劇人のプロであるバカール氏の選 んだ俳優にするか、結局はそのどちらかを選択しなければなりません。 その日は最後までアッサラオ君はいかにも深刻な顔をして考えこんで いました。
最終的な打ち合わせの結果、10月10日から3日間合同ワークショ ップをかねたリハーサルをみんなで行い、その席上でだれが主役にな るのか決めることにしました。帰りの車の中で、鈴木先生が「これで はなかなかまとめるのが大変だね。」ともらしていましたが、でもよく 考えてみると、私はこうしたプロセスこそがこの物語にふさわしいの ではないかと思っているのです。 ショーカット氏は、評議会の演劇学校の方が予算的にもはるかに力が あり、著名な演劇人であるバカール氏の舞台監督が絶対に必要でこの 際、アッサラオ君には引き下がってもらった方がいいと言っていまし たが、2人のコンキチの演技を見てからは、「やはり本物のアッサラオ 君のコンキチの方が素晴らしい。」と手放しで誉めていました。
3 日間のワークショップの初日には、まずバカール氏による国立演劇 学校の演技が始まりました。総勢 25 名を率いての演劇集団です。そし て二日目は零細集団のアッサラオ君があちらこちらから無理して集め た約 10 名による演劇集団の演技が行われました。アッサラオ君もさす がに意地がありますが、俳優はあちらこちらから探してきたというよ うな衣装です。
しかし演劇学校の演技を見ると、みんないわゆる優秀な演技を披露し ていましたが、いわゆるソツがなく演技になにか心をうつものがあり ません。特に総監督のバカール氏自身が自らコンキチ役をやることに
決めて、彼がコンキチをやることになったその演技はあまりにも大げ さで観念的なのです。ギリシャ悲劇と間違えたかのような表情をした りユーモアもおもしろさも全くないのです。演技で表情がおもしろく ないということは致命的ですね。演技はそれで死んでいますからね。
それに舞台の最初に、山に住むキツネに人形を使ったりしてなんとな く現代劇と人形劇を折衷したような奇妙な演劇になっているのです。 確かにこれは「奇妙なキツネ」だ。これは「さびしいキツネ」ではな い。と思いました。しかしスタッフのなかには、毛皮の店員役をやっ ている実に才能のあるおもしろい若い俳優がいて、一言しゃべるごと に、一歩歩き出すごとにみんなを腹をかかえて笑わせるのでした。
そこで私は、この舞台の中での重要な配役として、かれを社長役にし たらと進めたのですが、社長役をやっていた俳優はこれが一番いいと 言って渋ったので交代は実に大変でしたしが、結局は交代してもらい ました。まるで株主総会でも開いて会社の社長をそのイスから引きず りおろすようでした。しかしその結果は大当り。 特にコンキチの物 語のなかで、キツネが山から下りて会社に入るために社長面接を受け るところは、大きな山場ですからね。彼が深刻な笑いを創りだしのは 良かったですね。それはユーモアと厳しい現実の中での葛藤というキ ツネにとっては大きな演技になるわけですからね。
一方のアッサラオ君の演劇は実にシンプルなものでしたが、コンキチ の原作を実によく感じさせるものでした。ことに鳴声などは私がイメ ージしていた通りぴったりでした。もっとも彼は 2 年間、我が家に来 てはいつも鳴いていたのですから。
・・・・・そしてわたし私が最終的に考えた案は、キツネの主役はバ カール氏ではなく、アッサラオ君に、そして社長は演劇学校の若者に、 そしてお母さん役は演劇学校の中年の女性にと折衷したグループを構 成したらどうかと思って進言したのですが、バカール氏はどうしても 承諾しません。彼にふさわしい配役がないのです。彼は総監督で全体 を見てくれるか、あるいは毛皮を売る店員になればいいと思ったので すが、そうもいきません。大苦笑です。そして仮にバカール氏が監督 でやってくれたとしても「キツネ」のイメージはアッサラオ君とは全 く異なっているし、どうしようか?と考えに考えたとき、
「あっ!そうしよう。下手な折衷をしないでそれぞれが自分のイメー ジした舞台をやればいいのだ。」と。 そしてバカール氏とアッサラオ 君を呼んで、「どうだろう!それぞれが自分のイメージで舞台を構成し ようとしているのだから、無理に折衷せずにそれぞれが自分のイメー ジで仕事をするべきだろう。それぞれの劇団でコンキチをやったら?」 とまるでインドとパキスタンに介在する難しいカシミール問題を裁定 するかのように進言したのでした。
するとバカール氏は、いかにも苦々しげに聞いています。彼は「国 立演劇学校の演技こそが、ワークショップで最終的に選ばれるのが常 識」と確信していたからです。アッサラオ君のような零細集団とは訳 が違うし、格も全然違うと思っているのです。一方、アッサラオ君は 大満足でした。自分の主張が通るし、自分が主役になって演技ができ るのはこの上もない喜びですからね。
そうした 2 人の表情を見て、私は「それではこの舞台は 3 日間開催す ることにして、そのうち最初の一日をアッサラオ君の零細劇団に、二 日目と三日目を国立演劇学校がすることにしたらどうだろう?同じ物 語をそれぞれが違うイメージで舞台化することは、世界のどこでもよ くあることですからね・・・」と裁定したのでした。バカール氏も彼 らの演劇が二日間なるのでやっと安堵したのでした。
そして 2000 年 11 月 11 日から 3 日間にわたって「コンキチーさびしい キツネ」の舞台が行われることになりました。2 人とも演劇集団を率い ての競争ですから必死です。 2 人ともリング上でにこやかに握手しても、 ゴングが鳴ると同時に火花を散らすボクサーのように見えます。 「・・・・・ああ、疲れた。下手をするともう一つ別のカシミール問 題を作るところだった。共存共栄こそがいいんだよ。」 と言いながら も私は一瞬「これで果たしてこれでうまくいくか」実のところ非常に 心配だったのです。
案の定、2−3 日するとすぐに国立演劇学校のバカール氏から電話がか かってきて、「実は 11 月 11 日の初日が、アッサラオ氏の舞台というこ とになっているが、初日は、国立芸術評議会の長官や日本大使も出席 することになるから、初日はどうしても国立演劇学校がやらなければいけない。」と実に思いつめたような低い声での電話でした。
私もその要請の意味はすぐに了承して、「はい。それはそうでしょう。 あなたが働いている国立演劇学校の立場もよく理解できますから、ア ッサラオ君に依頼して、初日と二日目は演劇学校にしてもらいましょ う。三日目はアッサラオ君に依頼してみましょう・・・・・」と答え たのでした。 しかし、このことをアッサラオ君にしゃべると彼は、驚いた声を出し て、「エエッ!僕の方はたった一日だけだから初日だけだと決めたの に・・・・三日目の一番最後ではだれも客が来てくれないのでは?」 といかにも不満そうな声で言うのです。そこで困った私は咄嗟に、「な あに、アッサラオ君!日本ではね。一番最後の出し物は、酉(とり) と言ってね。一番すごい出し物があるという習慣があるんだよ。つま り酉(とり)になって一番いい出し物を演じて見ないかね。最後の出 し物をみんな見にくるんだから・・・・」と説得しましたが、ここは パキスタン。日本と違って「酉」だと言ってもなかなか彼は承諾しま せん。
そこでお客さんは最後の日に一番入るのではないかという私の説得で、 とうとう彼もしぶしぶ同意してくれた訳でした。そしていよいよ待ち に待った 11 月 11 日「コンキチ」のオープニングの日がやってきまし た。
(第2部) コンキチの晴れの舞台の日です。夢にまでみた舞台!それは私の夢で もあったのですが、それ以上にアッサラオ君にとってはそうでした。 1997 年より 2000 年まで、識字教育の専門家として 3 年半の任期を勤め 終え、12 月の帰国準備をしていた時期で、こうした舞台に力を注げる 余裕はなかったのですが、当日だけは、なにかしらわくわくとした高 揚感を感じて、イスラマバードから約20キロ離れたラワルピンディ のリヤカットホールにでかけたのです、
到着してみてなんと驚いたこと。ホールの門前には、今日の舞台が大 きなキツネの絵で看板に描かれて掲げてあるのです。本の表紙のコン キチの絵が拡大されたものでしたが、他の看板と競合するようにいか にも上手に描かれてあります。国立芸術カウンシルの主催だからでしょうが、今日はどれだけの人が見に来てくれるか気になりました。
リアカットホールは、パキスタン初代の大統領リアカット・アリカー ンの名前から由来しています。この大統領はこの地で暗殺されたため、 この地を記念して大きな劇場が建設されたのだそうです。会場には、 これまで私が行ってきたパキスタンでの識字教育の仕事や紙漉きで製 作した製作物など多数が展示されました。日本大使夫妻や文化庁長官 のゴーラム・ラスール氏など次々と来賓が到着しました。これはパキ スタン国立文化評議会の主催なので、会場には次々と多数の観客が訪 れてきました。
大ホールの舞台の背後を見て驚きました。「貢献に感謝」として銘打っ て、私の名前が舞台の上に大写しで 4 つの肩書きと共に張り出されて いるのです。4つの肩書きには芸術家、教育家、作家、職人というも ので、これほどたくさんの肩書きをつけて頂いたのは初めてでした。
どれひとつの肩書きも十分にできていないのにと苦笑いです。これは きっとファキ事務局長の考えに違いないと思いましたが、なんともは や、彼らが私のパキスタンでの仕事をどのように表現しようかと苦心 惨憺した結果に違いありません。観客に私の存在をどうやって伝える かという態度も感じて苦笑せざるを得ませんでした。クラフトマンと は紙漉きをやっている職人の意味ですが、職人としても私を捉えてい たのでしょうが、それにしても4つの肩書きとは実に重たいものです。
どうして文化庁がここまで丁寧にやってくれるのか、それはおそらく 私が紙漉き研修ワークショップを PNCA の要請に応じてイスラマバード とラホールで何度も行って協力してきたこと、そして妻和子が PNCA の 要請でイスラマバードとラホールで 2 回、彼女の絵画個展を開催した ことなども背景にあると思われました。そしてなによりも大きいと感 じたのは、今回の「コンキチ」上演のハイジャック騒動などドタバタ 劇の存在も背後にあったのではないか思われましたが、気分は悪くは ありません。たった一人のために、パキスタンでの3年半の貢献をこ のように高く評価してくれて会を開催してくれるのですから、帰国を 前にして大いに喜んだものです。幸福になるためには、片目は閉じて、 片目だけを開いておけばいいと思ったものです。
それから、その日のプログラムついて、関係者との最終的な打ち合わ せが行われました。まず最初の出し物は、以前4カ国の友人と共同製 作した「大亀ガウディの海」20 分のアニメーションのフイルム上映で す。これは以前私が書いた物語のアニメ作品で、インドのラマチャン ドランのイラスト、中国の劉宏軍の音楽、韓国のカン・ウーヒョンが 共同制作したもので、物語には大亀ガウディが、水族館から逃げ出し、 大海でロッテイという海亀に出会って、満月の下でロマンチックに結 ばれるシーンが入っています。
特に亀のガウディとロッティが愛し合うシーンが入っているために、 事前の試写会でその上映が大問題になったのです。インドのラマチャ ンドランのヒンドゥー文化では、男女の場面は、ミトゥーナ像(男女 交合図)など伝統的に文化の中で多様に表現されていますが、イスラ ム社会では、こうした性文化の表現などは一切出さない、というより も厳禁されているのが現実です。 イスラムの法律に触れるのです。パンジャブ州では、舞踏や歌謡でも、 女性の風俗が乱れるという理由で禁止通達を学校に出している昨今で すからね。しかし前座として、是非このアニメを映写したかったので す。物語の内容が、環境問題を考えさせると同時に動物愛護、原爆実 験までが描かれているので、パキスタンの実情にぴったり重なってい ると思えたのです。しかしガウディとロッテイが重なっていること自 体が問題になったのです。しかし他国の文化の問題には、繊細な配慮 をしなければならないのは当然のことです。
みんな深刻な顔をして「大亀ガウディの海」のアニメーションを見て いました。「今日の催しは文化庁の主催で、お偉いさんも多数やってく る。そこでこういう表現の作品を上映するのは非常に問題ではない か?観客の中には過激派だっているかも知れぬ。観客からなにを言わ れるかわからない。」
すると誰かが「でもこれは人間ではなく、海亀だからね。自然の姿だ からね。これは動物の世界ですよ」するとみんな、「そうだ。そうだ。 海亀だからね。人間ではなくて海亀だからね、そうだよ。問題ない・・・ 問題ない」、すると誰かが「いや亀だとしても、この場面はちょっと刺 激が強すぎるのでは」、「なるほど、亀にしてもね・・・・亀にしても・・・」
と亀のアニメを見ながら議論は続きました。どんどん時間が過ぎてい くのです。そこで私は、「それでは、このアニメを上映するとき、その 場面だけパソコンで早送りしたらどうでしょう?早送りするとそうす ると誰だって気がつきませんからね」、 その提案に、 「それはいい。それはいい。では上映のときに、早送りをすることに しよう」ということに決まりました。時間も残されていないため、私 がパソコンを操作してコマを早めることになりました。社会にとって 危険なものは早送りしたらいい。みんな安堵したのです。今日は、「コ ンキチ」が主役なのに、とんだところで問題になっても困るし・・私も含めてだれもかれもほっとしたわけです。
初日にふさわしく、たくさんのスピーカーによる演説が始まりました。 だれも「演劇の日」とは思わなかったようです。日本大使以外は、み んな絶叫調でした。特に同じ職場のシャヒードによる絶叫は、通常の スピーチというよりも「大統領の選挙応援演説」のようでした。私は、 次の大統領選に出馬を要請されているのかと思ったほどです。日本大 使も流暢なウルドゥー語に加えて見事なスピーチを行い会場は満足、 文化庁長官もハイジャック劇などのことはおくびにも出さず私のパキ スタン社会への貢献をただ長々としゃべりまくっていました。いくら でもみんなしゃべれるのです。これでは、まるで表彰式です。果たし てコンキチが出場できる時間があるかどうかと危惧したのです。
それからやっと前座として「大亀のガウディ」のアニメが上映されま した。しかしなんということ。会場が暗くなって、パソコンの操作が うまくできなかったので、コマの早送りがどうしてもうまくできない です。焦りました。止めるわけにもいかないし、「ああ、ガウディの場 面がでてきた。ああ、みんな見ている。ああ、しかし、コマ送りがど うしても早められない。カットできない」
会場では700名以上の観客が熱心に見ていました。結局、私は、事 前の打ち合わせしたようには何もできぬまま、20秒以上の濃厚なシ ーンを全部上映してしまいました。しかし誰もなにも文句を言わずた だ熱心に見てくれたのです。まあ、「亀」のことだから、どうというこ とはないとみんな思ってくれたのでしょう。
それが終わると、待ちに待った「狐のコンキチ」の舞台が始まりまし た。国立演劇学校の代表バカール自身が主役のコンキチとなって登場 しました。しかし彼の舞台は、私が頭に思い描いていたのとは、かな りイメージが異なっていたことです。特に出だしの、山に住む狐のシ ーンはすべて人形劇で行っていましたが、コンキチが、ケンポンタン の魔術を使って、会社員に化け、山から町に下山して行くところから、 初めて演劇となったのです。会社の社長に昇格したかっての部長は、 いかにもおもしろく会場を沸かせに沸かせていました。これは配役を 変えたことが的中したのです。
私は今回の演劇で演出に妙に興味がわいてきました。しかし鉄砲をも って山へ、コンキチがキツネ狩にいくところは、まるで人間の戦争の ような戦いかたをするので、驚きました。かれらは、これまでキツネ 狩りなどをイメージしたことなどもないようでした。とにかく、こう やって初日の公演が終わりました。
そして二日目も無事に終わりした が、二日目の上演後にアッサラムがいかにも元気のない顔でやってき ました。 「いよいよ明日は、あなたの舞台だね。がんばって。アッサラム君」 と励ますと、彼は元気のない声で、「初日は、オープニングだったから 700名もやってきたが、二日目の今日は、もう200名ぐらい。観 客はぐんと減っている。これは初めから恐れていたこと。三日目の明 日は、おそらく観客数はもっと減って50名ぐらいになるではないか。」 と言い出したのです。私は慌てました。本来、彼の舞台こそが主役に ならなければならなかったのですから。初日に決まっていた彼を説得 するため、日本の酉(とり)の話を持ち出して、ようやく3日目の上 演で納得してもらったので、これはなんとかしなければならないと慌 てふためいたのです。
「これは困った。なんとかしないと。これでは明日の観客は50名ぐ らいになってしまう。国立劇団には集客能力もあるが、零細集団では こうはいかぬ。困った、困った。どうしよう」 そこで、この会場が位置するラワルピンディ市に住んでいる絶叫調の スピーチを行った友人に相談したところ、彼はすぐに快諾し、「それは 実に簡単なこと。私を誰だと思っていますか。私はこの町の出身です から、親族郎党がいくらでもいるのです。」と言うのです。「それで観 客を何人ぐらい集めればいいのか」と言うので、 「会場を一杯にするためには、まず最低500名ぐらい必要」と答え ると、彼はすぐに、電話をかけ始めたのです。
「私の8人兄弟のほとんどは、学校の教師と新聞記者をやっているか ら、まず学校に動員をかけると、みんな喜んでやってくる、新聞社も 応援してくれる」というのです。 そして中古のバスを借り上げると、それを使って、なんと3日目には、 初日を上回る人数で観客を集め始めたのです。なんと、集まる、集ま る、みんな大劇場に無料招待されるので大喜び、学校の教師や子ども たち、父兄たち、そして彼の一族郎党がほとんど勢ぞろいするぐらい 集まってきました。大成功です。これでようやく酉(とり)の話も本 物となる。「なるほど血縁社会の結束とは固いものだ。」と感心したも のです。
その様子を見て、今日の主役であるアッサラム君も大喜び、これでよ うやく本格的な舞台に立てるという顔つきになってきました。「なるほ ど、観客の人数によって主役の顔が創られるんだね」と冗談を言いな がら幕開けを見守ったのです。 舞台が開くと、なるほど、我らのコンキチ君はさすが、長い間マルガ ラ山に向けて必死に鳴いて練習してきた成果がありました。彼は必死 に演じました。必死になって泣き叫んだというのが事実でしょう。彼 のキツネ役は、西欧的なオペラのように大げさな身振り手振りの演劇 ではありませんでしたが、なにか人の心を感動させ、気持ちを大きく 揺さぶるようなものを持っていたのです。彼自身の生き方をそのまま 見せたからかもしれません。彼が今、絶対絶命にあることを・・・・ イスラマバードの首都県庁では役職を終われ、今は無職で希望のない 生活を過ごしている彼の現在そのままの表情が、コンキチの舞台にな っていったからです。余りにもぴったりだったのですね。彼以外には 「コンキチ」役はもうないように見えました。こうやって3日目のア ッサラムによる舞台が無事に終了しました。私は、初日と二日目の舞 台を比較してみようと思い、そのとき読売新聞のデリー支社から、日 本人の新聞記者が駆けつけていたので、彼に感想など批評してもらう ことにしました。 「うーん、私はアッサラム君のキツネの舞台の方が好きだね。」とまず 一言言った後、「物語の内容とアッサラム君はぴったり合っている感じ だね。三日目がはるかにおもしろかった」と彼が誉めたので、アッサラム君の嬉しさは頂点に達したのです。
その新聞記者は、そんなに激賞したわけでもなかったのですが、彼が 記事にすると約束したこともあって、アッサラム君は有頂天で、いつ までもその記事を待っていたのです。世界の一流紙に、彼の演劇評が 載るものと思いこんで、しかしとうとう演劇評は掲載されませんでし た。おそらく彼は、今でも掲載を夢見て待っているのではないでしょ うか。 初日の主役をやったバカール氏が、こんなことを言っていたのが気に なりました。「私の考えでは、コンキチの母とは、まるで母国のパキス タンそのもののような感じがしたのです」と言ったことです。「母を撃 ち殺すというテーマは、パキスタンの人々が、鉄砲を母国に向けてい るような気がしてならないのです。」と。 彼のしゃべった意味深い言葉は、現在のパキスタンという国と人々と のありかたについて、一抹の不安を去来させています。当時、パキス タンは、インドに対抗して核実験を6回も行うなど、経済不安や社会 不安も頂点に達していた 2000 年の11月のことでした。
3日目の演劇を終えたアッサラム君は、いかにも大きな山場を乗り切 ったという感じで、それからは体全体も軽やかな表情になってきまし た。目つきもしっとりと落ち着いているのです。自信を取り戻したの でしょう。そして「これからは何度も「コンキチ」の舞台をやるのだ と、そして国際舞台にもするから是非日本へも呼んでくれ」と張り切 っていましたが、果たしてその後は彼からはなんの連絡もありません。 舞台を再上演したという話も聞いていません。
しかし私には彼が、今でもマルガラ山に向かって、キツネの声で鳴き叫んでいるのが、脳裏に深く残っているのです。「コーンコーン・・・ コーーーーン、コーン・・コンコン・・・コーーーーーーーン」