「臭い!ウザイ!キモイ!死ね!」 いじめの構造と日本

「臭い!ウザイ!キモイ!死ね!」



こうした言葉を毎日、教室で浴びせられていたら、誰だって自分が生きていることは嫌になってくる。そして毎日陰で悪口を言われたり、物をぶっつけられたり、みんなの前で下着を脱がされるというような屈辱が毎日、行われたとしたら、誰だって自分が生きていく意味を見つけるのは不可能だろう。


こうした言葉は、教室の中の異質な存在や異分子を排除しようとするもの。担任の教師は助けてはくれないし、自分の両親に言ってもきちんと言葉の意味を聞いてはくれないときには、子どもは、周りの環境に絶望し、絶壁に追い込まれていく。親が途上国の出身である場合には、陰に日なたにいじめの頻度は増していく。それに対する学校側の姿勢は、余りにも稚拙である。


1986年の人権擁護局の調査では、いじめの理由として (1)力が弱い、動作が遅い(2)なまいき、良い子ぶる(3)仲間に入らない(4)肉体的欠陥(5)人より優れている(6)転向生・・などを主な理由としている。今日では、この理由は若干異なっているように思えるが底に流れているものはみな同じ理由だ。しかし1986年頃と比べると社会環境が大きく異なってきているのも確か。子どもたちの生活環境には、テレビ、ゲーム機に加えて、コンピューター(Webとチャット)や携帯電話(Web. メール.チャット)などが続々と登場しており、人間関係を作るコミュニケーションや人関係の体験不足などが決定的に欠如してきている現実がある。

ネット社会が到来しているのに、言葉や文字についても、その変化に親や教師はなす術もなくただおろおろと傍観しているだけ。言葉はずっと古来から、緊密な人間関係や生活の中で切磋琢磨され使われてきたが、現代では、機械的で機能的な記号のように使われている傾向があり、親も教師たちも生活の中で本当の言葉の使い方”や”生かし方”を知らないところに追い込まれている。しかもそれを自覚していない。つまり世の中には、人を生かす言葉だけでなく人を殺す言葉もあることを・・・・・・知らない。

年間、約3万人を大きく超える大人が絶望の果てに命を自ら絶っている深刻な状況の日本。 これは先進諸国内ではトップの自殺率である。都内の電車内では、ひっきりなしに「飛び込みによる人身事故」による電車の遅れを放送している。みんな自殺の車内放送には慣れっこになっている。これは単純な意味での「いじめ」によって起こったものではなく、経済的なものが大部分を占めるけれど、これにしても日本社会や日本人から見捨てられた人々と言えなくもない。



自殺していった人々は「ウザイ!キモイ!死ね!」と大人社会から直接、激しい言葉で言われたわけでもないけれど、間接的にはこうした言葉や態度や社会環境によって「生きていく自信を喪失した大人社会」が、日本社会の陰の部分に存在している。そして成長し続けている。
 いじめの問題が深刻な課題として、日本社会の構造全体を揺さぶっているのは、これは日本の大人や子どもたちが自殺という手段以外にはもう自分自身を表現できなくなってきていることを意味している。社会やニンゲンが見えない絶壁に追いつめられ、そう、自殺以外に表現することができなくなった日本社会は・・・最も心の奥底から病んでいるという証拠。自殺予備軍や未遂者を含めるとそれは膨大な数に上ると思われる。

自殺していった子どもたちは、大人やいじめた友人たちに伝える"言葉!を「遺書」としてしか書けなくなった。人は誰でも"自分自身の言葉”をもてなくなったとき、書けなくなった時に、ニンゲンはニンゲンでなくなっていく。豊かな"言葉”とは、自分自身の意識を克明に表現しながら、自分自身の中の「青い鳥」を表現するものなのに、現代の表現とは「遺書」の中で初めてみんなの意識に刻印されている。考えてみれば日本社会は悲しくも恐ろしい世界を作ったものだ。青い鳥のいなくなった日本・・・・・・・

 今それに対応するさまざまな取り組みが議論されているが、「タウンミィーティング(TM)のやらせ質問」、や「「いじめによる自殺が文科省へは一件も報告されていないというような官僚体質」や学校そのものが”いじめ”があったことを隠そうとする体質が次から次へと報告され、日本社会の陰湿な官僚姿勢があらわになっている。


つまり閉ざされた世界を作ってきた。そしてその結果と言えば、要するにさらなる管理社会を徹底化することでこれをなくそうとしている。これが教育基本法の改正問題で、教師を徹底して国家管理しようとする陰湿な方向性である。21世紀は、個性や多様性を伸ばす教育があらゆる世界で求められている中で、日本だけが個性を重視するよりも国家管理という路線を歩まねばならなくなっている。

教育の中で最も重要な教師の存在は基本的に徹底的に自由でなくてはならない。これだけは守っておかないと社会が大変な事態に遭遇する。教師が自由でないと子どもたちは、自由に思考できない。自由に創造できない。真実が見えてこないから。しかし忘れてはならないことは、自由であることとは無限に努力していく人間でありつづけることを意味している。現場教師の研修などで感じるのは、最近はサラリーマン化した教師が非常に増えている。

それだけに、変化する時代には、教師は人間や社会や子どもについて徹底して”勉強”しておかなければならない。虐められる子ども」を守るためには、家庭から、学校から、コミュニテイから、政治から必要な手を打っていかねばならない。



「いじめ泣かされたというオーストラリアは、学校全体で真剣に取り組む姿勢として:
「1)どんないじめもしないこと。2)いじめを黙認しないこと。3)いじめを見たら教師に伝えること。」という学校の関係者全員が徹底的に取り組んでいくものでそれは効果をあげている。アメリカでは、”いじめ”に対する対処の仕方は”レイプ”犯罪と同じように厳しく対処しているという。甘い姿勢は許されていないのだ。こうした姿勢が、コミュニティの人々にも貫かれ、学校だけではなく、社会全体でも取り組んでいることがわかる。こうやってみんなでお互いに真剣に注意しあっていく体制作りが必要なのはいうまでもない。

しかし、よく考えておかないと、”いじめ”の範囲が無限に広がっていくようになり、それは一種の”いじめ”狩りになっていくかもしれない。そして表面的な規制や管理を行うようになっていくと大事な人間の本質を失うことになるかも知れない。「人間のかたちや関係性」が自由に見えなくなってくる。それは決して”いじめ”を許すというのではなく、人生は、やさしい言葉だけや表面的な規制を求めているのではないことも知っておかないといけない。要するに、”子ども”にとって人間の生き方や世界の真実を伝えていく必要がある。それがいつでも最も望まれていることだ。

 かって羽仁五郎という著名な思想家に「なぜ人を殺してはいけないと思うか」と無礼もわきまえず質問をしたことがある。するとかれは「だれだって自分は殺されたくはないと思っている・・・・」と答えた。この答えは重要だ。いじめられる側の意識や心理に無知であることが大きな要因でもあるからだ。それと同じく「なぜいじめてはいけないのか?」という答えもきちんと認識されていないことがある。「自殺」する子が続出したから問題にしているだけ、つまり「子どもがいじめられたらどうなるか、どんな惨めな気持ちになるのか、またなぜいじめるのか?なぜいじめたら悪いのか?というようなことを想像させる授業などは創意工夫できるのに・・・多くの教師は想像力不足や怠慢で全くやっていない。事が起きてからいつも全校生徒の集会で首をうなだれて謝罪するのが校長の仕事となっている。

いじめてる本人も自分がいじめられたらどうなるか、とかいうようなことを全く考えてもいない、想像もできない。こうしたことを教えるのが、人間が社会の中で生きていくための勉強ではないか。人間社会では、対人のコミュニケーションのとりかたが最も重要なスキルとなってくる。がそれは、対国家間も同じだ。かって日本が行った戦争では、周辺地域の国々のおびただしい人々を踏みつけ傷つけ殺したのに、そうしたことをカラリと忘れようとする日本人の歴史認識や姿勢からは、人の痛みを思いやるような豊かな想像力は生まれてくる余地はないのかも知れない。想像力を豊かに育むためには、忘れてはいけない。人を踏んだことを!!忘れてはいけない。人をいじめたことを!

いじめの問題とは、異質なものや個性を認めないところからも起きているが、性格や才能が一致しない子も、集団の中から追い払われる傾向がある。「要するにお前は、ウザイんだよ!キモイんだよ!死んでしまえ」と言われたら・・・あなただったらどうする?そう。いじめに屈しないように強くならないければならない。また同時に"子ども”をたくましく鍛えなければならない。  言葉の暴力にも肉体的な暴力にも・・・・この課題は、日本社会の病理が噴出しているだけに、「いじめ」をさらに社会や人間を学ぶ題材として、いじめを、人間の「社会システム」や「差別」や「歴史」や「異文化教育」などの中に無数に存在しているものと深く結びつけて考えることが必要だ。日本にも世界にも根は共通しているから。そしてそこから自分と社会との関係性に気づかせる新しい「人間関係論」が必要だ、特に日本社会では。

結論として考えると、こうした本質的な存在を考えたり変えていくためには、いじめをする「子どもだけ」を排除したり、いじめた本人を罰しようようとする管理社会的発想と方向性だけでは決して本質的な解決策にはならない。やはり、日本の大人の生き方や社会のありかた、そして何よりも「教師」の創造性と自由な責任制、現代を「たくましく生き抜くための言葉の役割」などを育む自由な教育環境などを作っていくことが最も望まれているものでないか。

しかし現実には行政面から「物言えば唇寒し・・・」という時代が音をたててやってきている。表現の自由や真実に基づいた教育の機会が教師の手から次々に奪われ、「「自由」や「創造性」などは、どこかの海岸へ打ち捨てられながら、日本病は深刻な形で官僚の手によって進行している。そしてこうした状況を憂える教師に対する本格的な「いじめ」が始まるのも時間の問題になっている。
 
 生きていくこととは真実の”声”で叫び続けることだ。そして社会では”多様性”や"個性”が最も必要だということも身をもって勇敢に表現し続けなければならない。それが"人間的に生きようとする者の最も大切な言葉ではないか。