赤えんぴつ&青えんぴつ  (南アジア共同出版から)

赤えんぴつ&青えんぴつ   

これはインドとパキスタンカシミールを題材にして、南アジア地域で13年かかって共同編集・出版したICLCの4冊の「平和絵本」の中の1冊です。この絵本は、パキスタン側の参加者が構想を書き、インド側の参加者が絵を描きました。

「赤えんぴつと青えんぴつ」

「文房具のお店で、赤えんぴつと青えんぴつが、それぞれ自分の将来のことを夢見ていました。「二人は、どんな人生を生きるんだろうね!でも二人とも、人生では思い切り働いて短くなって人生を終えるときには、再会して人生を語り合おうね」と約束しました。

それから赤えんぴつは兵隊さん、青えんぴつは先生に買われていきました。兵隊さんに買われた赤えんぴつは、次の日から、いつも人を殺すことや作戦ばかりを描き出していきました。大地は赤く染まっていきました。一方、先生に買われた青えんぴつは、人生に困ったこどもやおとなたちをいつも励ましては、たくさん言葉を生み出していきました。そして二人とも短くなって人生を終えて、焼却場に捨てられたとき、偶然出会ったのです。

「あっ!赤えんぴつさん、どうだった?あなたの人生?」「・・・・うううん。私が兵隊さんの人生で夢中で書き出していたのは、いつも戦(いくさ)のことばかり、人を殺すことでに夢中だった。どこもかしこも赤一色に染まって・・とても悲しい人生だった」
「青鉛筆さん、あなたははどうだった?あなたの人生も悲しかった?」「・・わたしはね。いつも喜びの言葉を書きだしていたよ。そして人生はいつも幸せに包まれていた。いつも暖かい言葉で、こどもやおとなたちを励ましていたからね・・・・」

赤えんぴつが言いました。
「最初は、同じ姿でも、「人生ではどんな言葉を紡ぎ出すかで、人生は全く違ってくるんだね。・・・・」

「ほんとうにそうだね。わたしもそう思う」青えんぴつも答えました。

大亀ガウディの海の中国語版(台湾)が翻訳出版されました。

「大亀ガウディの海」の中国語版(台湾のグリム出版)が刊行されました。「万歳!!」嬉しいです。 台湾も日本と同じように、海洋に囲まれ、原発を開発している国です。そして国内で反原発の動きが活発になってきています。




海が死んでしまった!!!!地獄の幕が上がった!ジャー・ヒロ
(転載)カリフォルニアから約240キロ離れた太平洋海底の98パーセントが死んだ生物でおおわれている。これはある研究の結果として発表された。
フクシマ原発災害はすでにわすれさられている。しかし原発外に散った放射性物質は大量に太平洋に流れ、実際、汚染水 は原発地下から今もなお海へ流れ続けている。
北米の太平洋岸では、おおくの人たちが心配している。2011年にフクシマ事故で外へ発散した放 射性核は 大洋を越えてアメリカへ到達したのだろうか?
海洋研究者は市民の協力を得ながら、綿密なデータを収集している。
ある研究によれば10年経過すると水は太平洋全域でほとんど一定になり、東では、幾分高く、北米の海岸 で Beja Californiaの海岸では(~1 × 10−4)という最高値になるという。中国の第一人者の結果も同様である。これについてNetzfrauenは2013年10月にすでに報告している。
私たちは、一体毎日太平洋に流されている汚染水はどうなっていくのだろうと疑問をもっている。しかも3 年後の今も続 いてい る。
„28 Belege dafür, dass die ganze Westküste der USA durch radioaktiven Fallout aus Fukushima belastet ist“
以前、上のブログで示したように、合衆国とカナダの西海岸近海はフクシマ事故来の放射能で汚染され、魚 はエラ、 目玉、 腹部から出血しているのが見られる。
The Ocean is Broken – a Fukushima reality – Deutsche Übersetzung!
マックフェイダインは、海上へ出て、生物の代わりにゴミを見たと語った。「今までの人生で海上 にはたびたび遠くまで行って、亀、イルカ、さめ、魚の大群を見てきた、しかし、今回は3000海マイル上で、何も生きているものにあわなかった。」ニュー・カッスルに戻っても、彼の ショッ クと恐怖感は残る。「海は破壊された」と彼は首を振って驚愕している。
放射性汚染水の泡がカリフォルニアに到る
太平洋で出来た放射性汚染水の巨大な泡がカリフォルニアの海岸に到達、海中で、すでに非常な被害をもたらしたのは明白だ。日々300トンもの汚染 水が海に垂れ流されている。学者たちの発見によれば、高度汚 染水は巨大な泡となり、太平洋を北米へと流れている。太平洋海流の調査によれば、これは米西海岸に重大影響を及 ぼす。メリーランド、タコマ公園にあるIEER・エネルギー・環境研究所所長・核エンジニア、アー ジュ ン・ マッ クハイアニは、この泡がすでに2014年3月にアメリカ西海岸に到達したと予想している。とくにセシウム137 の汚染泡の量の最高値は2016年に予想される。
魚はエラ、腹部、目玉から出血。
アメリカ沿岸の海は現在、すでに放射能のよる被害を明白に受けている。南カリフォルニア沿岸では若いトドの 45 パーセントが死んでいる。平常は3分の1が死にいたる。カナダとアラスカ沿岸の赤鮭ぼ生体個数は歴史的な数に減ってしまった。カナダ西海岸に沿って魚が原因不明の病気になっている。魚はエラ、腹部、目玉から出血 して い る。
専門家の話によれば、アメリカ西海岸の海水の放射性は5年から6年の間に2倍になるという。カリ フォルニア で、 学者が発表したところによれば、15体のマグロを調査したところ、全部がフクシマ原因で汚染していたという。
ハワイと米西海岸の間にいるプランクトンの中に専門家は大量のセシウム137を発見した。プラン クト ンは海洋生物の食物連鎖の始まりだ。キールヘルムホルツ海洋研究所でのシミュレーションにしたがえば、2020年までに 太平洋の隅々まで大量のセシウム137で汚染される。これは2013年11月16日の私たちの報告にある通り。 他にも英語の発表がある。J.N. Smith, R.M. Brown, M. Robert, B. Williams and R. Nelson: “Radionuclide Transport from Fukushima to Eastern North Pacific” (PDF)
FukushimaOzean
Fukushima radiation found 400 miles west of Newport
アメリカの住民も心配しているが、当然だ。カリフォルニア沿岸で観察されているヒトデの大量死、魚のガンなどの 原因がフクシマ由来でなければ、何なのか。海洋生物学者は一般的環境汚染や伝染病に原因をもとめている。最近のニュースによれば、オレゴン州・太平洋岸にあるニューポートから西へ400マイルの海上でフクシマ由来の放射能が測定された。
すでになんども報告されているとおり、カリフォルニアには、すでにフクシマ放射能が到達しているのだか ら、 対策が講じられねばならない。
カリフォルニア海岸から148マイルの海底はその98パーセントが死んだ生物でおおわれている。
Von Carol Pletnick December 8, 2014
この新しいニュースは驚愕である。フクシマ事故後、いかに速く海中の動物が死にいたったかを明確にしめしている。National Geographicと National Academy of
Scienceがだしたデータは 2012年7月1日に検査された海底の98パーセントが死に、分解されつ つある海中の生物でおおわれていること、しかも、わずか145マイルしかカリフォルニア海岸から離れていないこと、 だった。98パーセントが平常と思う人には、伝えねばならない、わずか数カ月前のおなじ調査では、 同じ海底 の1 パーセントしか、覆われていなかったのだ。
サンタ・クルスの海岸に打ち寄せられる無数のイカを見せてくれる、 kevin blanchの報告も含めて、さまざまな現在の状況を示すビデオがある。 MsMilkytheclown1はアメリカにたっしたフクシマ放射能の死に至ら せる質について教えてくれる。

風のように、今もシルクロードを旅している私

20代のとき、ドイツのミュンヘン駅をオリエンタル急行の夜汽車で出発し、トルコに到着し、それからイラン、アフガニスタンパキスタンを経てインドまで汽車やバスを乗り継いで陸路を旅したことがある。それはシルクロールートをヨーロッパから逆にたどったものなのだが、2ヵ月後、インドに無事に到着、私は西ベンガル州タゴール国際大学のあるシャンティニケタン(平和の地)で2年間暮らした。

滞在中、二階の窓から見える砂漠状の大地を見ながら夢想しながら書いた物語は「さばくのきょうりゅう」という作品だった。この物語はインドでは15言語で、アジアではほとんどの国で翻訳出版された。これは砂漠をいくラクダの隊商の仲間たちが、油の売上をめぐって権益争いをする話。この内容は中東の現在の争いと酷似している。

考えてもみれば、シャンティ二ケタンの砂漠では、タルガーチと呼ばれる高いヤシの木が、いつも風の中で音をたてて揺れていた。あれからいったい何年が風のように過ぎていったことだろう。思い起こすたびに人生の過ぎ行く時間は迅速だと感じる。しかし私は今もシルクロードを旅しているような気がする。どこを目指して歩いているのだろうか?

・・・・・・・1975年、ドイツからオリエンタル急行に揺られてはるばるとトルコの地に着くと、そこにはアジア大陸が広がっていた。東西文明の十字路ともいわれるイスタンブールで、私が目にし、耳にし、臭いをかいだのは、ヨーロッパ社会の時間や空間とはまるで異なった、ごちゃごちゃとした活気ある世界や生活であった。あらゆるものが生(なま)の形で動いており、生き、笑い、愛し、哀しむひとびとのアジアの生活がそこから広がっていた。

南の国特有の灼熱の太陽と、照り返す路上の熱気のなかで、ひとびとのすさまじいかけ声、ののしりあい、叫び声などを聞いた。イスラム教のモスクからは、コーランの祈りへの呼びかけアザーンが天空にこだまし、何百年も全く同じ鉄のハンマーで打っていたのではないかと思えるかじ屋のハンマーの音。羊の腸に水を入れ運ぶ黒い服装の男たち。きゅうりを十字にさいて、塩をふりかけ、それを片手にもって売り歩く少年たち。黒煙を吐きながらけたたましく走りゆくポンコツ自動車……。そしてウスクダラの町に到着すると、昔、日本でも流行ったウスクダラの歌を子どもたちが歌ってくれた。http://www.youtube.com/watch?v=yFYKDnNMibI

およそあらゆる存在が、生きのびようと必死にもがき、自分の存在を容赦なく主張している。しかし私は鼻の穴を黒くさせながらも、全身でホッとするくつろいだ感じをもっていた。この世界は、ドイツやヨーロッパで感じた、いかにも文明人らしくかまえることもない、きびしくきめられた姿勢や役割りを行儀よく演じることもいらない、ただ人生に自然に参加してゆくだけで十分な空間だったのだ。

つまりアジアへの入口で、私は、ヨーロッパの時間や空間と違う実にくつろいだ人間的なスペースを感じたのだ。あとでふりかえる時、このごちゃごちゃとした明るく生き生きした体験は、じつに幸せなアジア体験のはじまりではなかったかと思える。ドイツやフランスで感じた冷たく暗く長い冬のなかで、ヨーロッパがもっているある種の冷たさは、一体どこからくるのかと、終始考えていた。ミュンヘンの雪の朝には、トルコ、ギリシャユゴースラビアなど南の地からやってきた黄色いゼッケンを着けた外国人労働者が、悲しげな表情で雪かきをしていた。そのそばを毛皮をはおったひとびとは、高級車のベンツで静かに通りすぎてゆく。ヨーロッパはたえず、気持ちのいい空間を求めていた。外国人労働者を使って、いかなるものを犠牲にしてもだ。ドイツの犬は、余りにも行儀が良かった。オペラ見物に連れてゆかれても、調教が徹底していて、人間以上のきちんとした態度で鑑賞している。これは驚異。犬は吠えるものだということを忘れてしまっている。

ミュンヘンの街角でみかけた上品な骨とう屋。ショーウインドーのなかには、世界各地から集められたアンティークの人形が無表情に大きく目を見開き、買い手がつくのを待っていた。そこには、インドネシアの農村から運ばれた大量のワヤンクリ(影絵人形)が無造作に積みあげられていた。これだけのワヤンクリが村から運び去られると今、その村では影絵は消えてしまったことだろう。今や文化財は投機の対象となり世界中で買われて、売られていくのだ。

いろいろな体験を漠然と考えながら、トルコのイスタンブールから黒海を船で横切ったとき、船中でトルコの落下さん部隊に所属する兵士がさかんに落下さんで飛びおりる時の話をしてくれた。千人ぐらいが空から飛びおりると一人や二人はパラシュートが開かなくて大地にたたきつけられて死ぬという。そう言ったあと、兵士たちはみんなでけたたましく大笑いした。そして、そのあとは急にシーンと黙りこんでしまった。重たい沈黙。彼らは兵役が終わったら、郵便局の配達員やパン屋の親父になって故郷で働くといっていた。人生を夢見ている若い兵士たち。

けわしい山岳地域のイランを越え、アフガニスタンへと一人旅はつづいた。とつぜん、砂漠に銭湯の煙突のようなものが見えてきた。これは工場地帯かなとおもっていたら、ターバンを巻いた老人が、あれは古いモスクの尖塔の遺跡だと教えてくれる。焼けつくような砂漠のなかで、ひとふさのぶどうをくれた親切な老人―それにしても一人旅とはじつにさまざまな事を経験させてくれる。この尖塔のあった地名は、へラートだという。このヘラートという古い町は、後年、タリバンアメリカ軍との壮絶な戦いが行われてて、街のほとんどが完全に破壊されてしまった。


イランの山中の茶店で、ホンコン映画のスター。ブルースリーを夢見るイランの青年たちから、「あなたはブルースリーで有名な日本から来たのか?」と質問を受けた。ブルースリーは、香港なのだが、まあどちらでもいいだろうと「イエス、イエス」と答えていたら、突然その男から決闘を申し込まれた。ハハハハハ、私はオタオタ (笑)。私はブルースリーの国ではなかったので、決闘は丁寧に回避した。「実は旅で疲れているから・・・またあとでね・・・・ハハハハ」いろいろなことがありながらも、インドへ、インドへと陸路の旅をつづけた。インドへ向かった理由は、実はインドの詩聖とも呼ばれるロビンドロナート・タゴールが設立したシャンティニケタン(平和の地)があって、そこの学園で哲学を学ぼうと考えていたのだ。その地では大きな菩提樹バニヤンの木の下で、生徒が円形になって師の教えを聞きながら伝統的な授業がおこなわれている。そこには教育の理想があるのではないかと思った。

私は、ロビンドロナート・タゴールがかつて呼びかけた“人類の岸辺に集まれ”という呼び声に応えて、はるばるシャンティ二ケタンの地までかけていったわけだが、しかしいつの時代でも学園とは、うつわや形だけで成立するものではない。人間らしい人間がいて、つまり中身があってはじめて成立するものだけに、タゴールなきあとの魂のぬけた哲学の講義には何の興味ももてなかった。

そのためベンガルの農村地域を歩き回るのを私の日課とした。ベンガルの村には、ベンガル人とは違うサンタールという先住民族である少数民族が住んでいた。私は、サンタ―ルの人々が持っている生活様式や生き方から、大きなものを感じた。それは自然とともに生きる人々の姿。後年、この学園の出身者である芸術家のA.ラマチャンドランと知り合ったとき、彼も同様のことをしゃべっていたが、サンタールの文化に触れて、私はかってタゴールが目指したシャンティニケタンの魂に触れた気がした。



インドの多様性とはすごい。言葉は州言語だけでも15ぐらいあるし、公用語もヒンズー語や英語、そして民族の多様さは東西南北の顔がある。宗教といってもヒンズー教、仏教、ジャイナ教イスラム教、ゾロアスター教シーク教、などが混沌として共存し、インドはじつに興味深い世界であった。人間と自然が、伝統と現代が、混然一体となって生きている。もちろん相互間の摩擦は深刻であった。ドイツでは犬も人間もしっかり区別されていたが、インドでは区別は存在しないが、カースト制度という差別構造が村の生活のすみずみまで根を下していた。

憲法では、カーストを制度を禁じても、そのなかで声にならない声を出して叫んでいたのが少数民族のサンタールのひとびとであった。しかし彼らは、誇りをもって古代からの無限の時間のなかを豊かな文化とともに生きつづけているようにみえた。しかし一般のベンガル人は、彼らに厳然とした差別意識をもっていた。アンタチャブル以上に、少数民族は差別されているのだ。そしてバウルという吟遊詩人の存在も知った。一絃琴を手にもって、家々を周り歩く人々なのだが、誇り高い放浪する吟遊詩人とも云えようか。

私が住んだロトンポリという地域には、赤茶けた砂の砂漠が広がっていた。毎朝太陽が昇るとその砂漠を、就学できず、家系を助けるために働いている六歳から八歳ぐらいの子どもたちが牛や山羊を連れてやってくる。片手に小さな竹の笛をもち、その音色が響いてくると、私はきまって砂漠に飛び出した。そして子どもたちと一緒に「砂漠の学校」なるものを始めた。それは雨上がりの後、砂漠で見つけた良質の粘土で、牛ややぎなどさまざまな動物を創るものだった、タゴールが自ら作詞作曲した歌を歌ったりしてのんびりと暮らしていた。砂漠の子どもたちが、生まれてはじめてつくった牛や山羊は、子どもたちが生活のなかで家畜を知り尽くしているだけにじつに感動的。粘土のかたまりは、彼らの手にかかるとたちまち命のかたまりのように表現された。

またある時、町で買ってきたベンガル語版の美しい絵本を子どもたちに見せたことがある。絵本には、満月の晩、白象と黒馬が月の光を浴びながら楽しく踊っている絵が画かれてあった。その絵本を子どもたちにみせると、子どもたちは、まるで魂でも奪われたかのように見入っていた。

やがてインドでの滞在を終え帰国し、私は縁あって、ユネスコアジア文化センター(ACCU)というところで働くことになった。そこには伊藤良二という素晴らしい理事長がおられた。40名もの中からたった一人だけ彼の眼鏡にかなったということだったが、私はこのACCUがひどく気にいった。つまり帰国後は、このような仕事を立ち上げようとしていたからだ。そしてACCUのアジア地域のユネスコ活動に参加したとき、「本の飢餓」に苦しむ子どもたちは、インドだけでなく中国やベトナムやイランやモンゴルなど、ほとんどのアジアの国々、そして世界中でな状況にある事を知った。そして私は、アジア・太平洋地域25か国と共同で児童書や絵本や識字教材などを多数共同開発に従事し、識字事業を開始することになった。

1990年の国際識字年には、世界160か国の協力で学校にいけない子どもたちのための絵本(『なにをしているかわかる!』(日本語版は朝日新聞社刊)を刊行した。これらの事業を通じてこの世で最も美しい絵本は、この世で最もこれを必要としている子どもたちにまっ先にとどけてゆく事が必要だと痛感した。しかし、アジアやアフリカなどの現実はきびしい。今学校にいけずに文字の読み書きのできない子どもたちは激増している。アジアには約7億人にのぼる文字の読み書きのできない大人がいるが、就学できない児童は1億人にのぼっている。

その数は人口爆発により激増している。大人の文字の読めないひとびとが増加することは、父母の生き方がその子どもに大きな影響を与える。飽食の日本の現状からどうしても見えないさまざまな現実がアジアには深く広がっている。どのように日本の子どもたちに、この光と影を背負ったアジアの現実を伝えてゆくか。二十一世紀とは、私たちは大きな責任と課題を背おっている。

私は一つの夢をもっていた。ドイツやインドにいた時、書きためていた創作童話を出版する事、1988年に英文”The Legend of Planet Surprise”(「びっくり星の伝説」)を自費で刊行した。これからのアジアの子どもたちに自分の感じたメッセージを寓話のスタイルで伝えたかった。驚いたことにこの本は2年もたたないうちにアジアの10か国で15言語で翻訳出版されていった。ラオスでは、この本を刊行するために募金運動がおこり、2万部が無償でラオスの小学校に配られた。タイでは5万部が刊行され、マレーシアでは国立文学研究所(デワン・バハーサ・ダン・ブスタカ)で700名の人々が出版記念会を開いてくれた。

私は喜びで胸がはりさけるような嬉しい気持ちだった。するとラオスベトナムの友人が言った。
「あなたの物語りには、私たちの人生や生活が生写しになっているのです。あなたの物語というより私たちの物語なのです」彼らの言葉を思い返す。「びっくり星の伝説」のなかで描いたことは、「人間の手と言葉がつくり出した歪な文明の意味を表現してみたかった。あふれる言葉と何ともいいようのない巧みな人間の手で、一体いかなる世界を創り出しているのか。人間は、幸せになることよりも不幸せになるものばかりをつくり出しているのでは・・・・・人間の創造とはいったいなにか?

アジアは今大きな変動のなかにある。21世紀を生きていく子どもたちにアジアの現実を、その光と影をどう伝えてゆくべきか。かつてシャンティニケタンの地でこう考えたことがある。児童文学に関係している人々よ!口にくわえて食べている子どもたちを、一刻も早くテーブルの上にもどせ。いやテーブルの上ではなく、土の上に、自然の上に、思い切り返しもどせ。自然のなかにいてはじめて子どもたちは、子どもらしく、そして人間らしくなる。

「自然に生きることこそ、人間は学ばねばならぬ。」と、シルクロードを風のように旅して得た結論だった。


[

絵地図の「自己分析のワークショプ」が始まりました。

昨夜は目黒にて、第3回こころの絵地図分析研究会が開催されました。毎回、参加人数が増えて、昨夜は、二十数名の参加者となりました。

絵地図の実践報告のなかには、聖学院大学ウイルソンさんが作成した、ボランティア活動から生まれた「寄り添う」という「1人の女の子の全身像の絵地図」報告がありました。それは一見するとなんの変哲もない絵なのですが、「寄り添う」というテーマの下に、1人の女の子の全身を表現しながら、それぞれの身体の部位に関係する「寄り添う」という具体的な言葉を使って豊かに表現したもので、ボランティア活動の本質を表現したものでした。お見事でした。言葉は環境によって、大きな力や象徴性も増していくものですね。とても暖かい絵地図でした。

それから参加者は、「自己分析のワークショプ」に参加し、3つのグループに分かれてまず「自分自身」を語る会から始まりました。こうした会で、さまざまな人の体験を聞き、生き方をシェアーながら、徹底して自らの言葉を生み出していくのです。そして、次回までに最低40枚から100枚の短冊に、自分自身についての思いをことばで思いきり書き入れていくのです。まるで蚕が糸を吐き出すかのように・・・次回は2か月後、それまでに参加者は、自分と向き合いながら自分自身を徹底的に表現し、それから本格的な絵地図製作が始まります。

「わたしとはなんでしょう?」「わたしは どこから来て、なにをして、どこへ行くのでしょうか?」という人生の課題を徹底的に表現して分析します。

参加者は、主に大学や会社のキャリアカウンセラー、小学校、高校教師、大学教授、県庁で働くカウンセラー、絵本作家、セラピスト、NGOなどさまざまな職種の方々でした。いよいよ二か月後は、絵地図ワークショップのハイライトを迎えます。世界で初めての絵地図分析研究会です。


”汝自身を知れ” からすべてが始まります。

放射性廃棄物の現実

福島県における、このような生々しい放射性廃棄物の現実を正視することから、哲学や思想が生まれるのですが、残念ながらほとんどの日本人は目をそむけてしまいます。「私に関係のないことだから・・」と。こうやって人生や社会で、ビジョンの持てない・持たない日本人がすくすくと育っていくのですーしかしこのような日本人は、21世紀の世界的な大変動期にはなんの役にも立ちません。ただおろおろして銀行に駆け込むだけです。
悲しい日本の現実が、文科省経産省主導の教育から次々と生まれているのです。ビジョンを持つ人間は、深刻な問題をいつも「自分のこととして」感じるところから行動するのですが・・・・そして先生という存在は、「自分の学校へやってくる生徒だけを生徒として認識し」、母親は「自分の生んだ子どもだけを子どもととして認識していく」、この狭量さが日本人の人間環境を形成しているのです。過去の日本の歴史認識も全く同じことで、日本人が過去や現実からきちんと学ばない限り、現在も将来も生き抜く知恵は湧き出てこないのです。



どこにも人生劇場が・・・・

1.  お母さんのカマボコ
   http://tajimaiclc.at.webry.info/201205/article_17.html
   
2.<歴史の授業> 僕の先生は軍曹だった。
  http://tajimaiclc.at.webry.info/201305/article_1.html

3 .パキスタンの二つの演劇集団が舞台化した「孤独の狐ーコンキチ」
  http://d.hatena.ne.jp/iclc2008/20130203/1359908717

4.この世界に正しき怒りと優しさを!
  http://tajimaiclc.at.webry.info/201302/article_4.html
 
5. 軍事政権下のミャンマーで推進した基礎教育改善プログラム
  ミャンマーに春が来るか。(2006年)
  http://tajimashinji.at.webry.info/201211/article_1.html

6. パキスタンの子どもたちと識字教育の未来
 http://tajimashinji.at.webry.info/201301/article_

  

旧友と会うということは・・・・元気が出ます。

ああ、楽しかった!
昨日も、今日も、古い友人に会っています。感激!この25年ぐらいは、非常に忙しかったので、古い友人たちにほとんどゆっくり会えませんでしたが、この頃、つまり齢を重ねてきた今、きちん会っておかないと人生もあっという間に日が暮れてしまいそうだからです。(笑)。もう多くの友人が黄泉の世界です。京都の市役所に勤めていた友人、東京で会社を経営していた親しい友人などさまざまです。残念!学生時代が終わってからゆっくりと友人たちと旧交を温めるということがほとんどありませんでした。団塊世代は、学生時代は、学生運動を!そして社会に出てからは、夢中で人生を生きてきたからですが・・・・昨夜は、小さな会で、デザイナー、小学校教師、弁護士などの古い友人と会いましたが、やはり旧友はいいものですね。気持ちがすぐに通じます。

今夕もこれから渋谷で会う友人は、学生時代は激しく政治や哲学を語り合っていた友人ですが、彼は今、私大で社会学教授をしているので、今日の議論が楽しみです。あの世で酒を飲みかわすこともできませんから・・・・親しい友人とは、親しいだけに、人生の生き方の検証から始まります。 そういえば、彼の口癖を思い出しますね。「田島よ、そうはゆうても(言っても)・・」(笑)

そして今夕、楽しい語らいが始まりました。25年も過ぎていると、お互いの顔もかなり変形していて(笑)、かなり意識しないと気がつかないほどでしたが、午後2時半から午後7時版まで・・・やはり旧友は素晴らしい。人生の生きかたを真正面からきちんと見つめてくれます。すいぶん励まされました。人生で持つべきものはやはり友人。その感をとても深くした再会でした。またすぐに、彼が尊敬している教育者を紹介してくれるそうです。楽しみです。