われわれの世界ー正しき怒りと優しさの必要な世界!

仏教ボランティアの現場から 正しき怒りと優しさを――『大亀ガウディの海』の作者、田島伸二氏へのインタビューから

●絵本学会での出会い

 昨年の六月十二日、東京の大正大学で行われた絵本学会大会に参加した。受付を済ませると懐かしい顔が見える。田島伸二氏であった。かつてニュースレターのインタビューのために会って以来であるから、ほぼ十数年ぶりになるだろうか。お互いに東日本大震災の被災地から帰ってきたばかりで、挨拶もそこそこに田島氏は福島や岩手の話を、私は宮城の話を語ってとどまることがなかった。

 田島氏は、現在、自ら立ち上げた「国際識字文化センター(ICLC)」の代表である。識字教育の専門家であり、寓話作家でもある。そして「ケアのための心理絵地図分析(PMA)」を開発した人としても知られている。現職に至る前は、長いこと識字教育の専門家としてユネスコ・JICA・NGOの仕事で、アジア、太平洋諸国、アフリカなどを回っている。
 震災後の今読むべき本は何かと、お薦めの本を尋ねると、すかさず「これです」と言って鞄から取り出したのが、作・田島伸二氏、絵・A.ラマチャンドラン氏の『大亀ガウディの海』(ディンディガル・ベル刊)という絵本であった。だいぶ前に書かれた作品であるのに、その時まで存じあげなかったのだが、その後一読して、まさしく今多くの人々に読んでほしい本であると思った。

●『大亀ガウディの海』




 大都市の水族館を脱出した大海亀のガウディ。夢みていた故郷の海に帰ることに成功するが、故郷の海は環境汚染で破壊された状態であった。ガウディの愛する海亀ロッティも核実験の放射能汚染で病んでいる。ロッティの病気を治そうとガウディが生命の木を捜そうとしたとき、人間たちはその木の近くで核実験をしようとしていた。ガウディは命をかけてそれを阻もうとする。ガウディの運命はどうなるか。真っ黒こげになって海水に溶けていく。そして、環境が破壊され苦しんでいる動物たちが叫ぶ。「自然をそのままに私たちに返してくれ」――。


福島の原発事故以後の町や村の様子が思い起こされ、この物語と重なった。それは、人間たちが避難したあとに見捨てられた牛や犬たちの姿である。人間が己れの利益のために地球を汚し、多くの生き物を傷つけ、殺していることは知っていた。でも、生き物たちの悲しみや苦しみまで思い至ることはなかった。
 ガウディは自分の身を犠牲にして大切なものを守った。今、人間が起こしているものは人間にしか止めることはできない。奪われてはならないもの、失ってはならないものを私たちも守らなければならない。ガウディの叫びは生物すべての叫びであろう。この作品を通して人間の責任を痛感する。


 この作品は核実験、原発の恐ろしさを描いた絵本であり、子どもばかりでなく大人にいたるまで、すべての人々のための環境絵本である。福島原発事故の後の今だからこそ一層の切実感をもって胸に迫ってくる。これをすでに、四十年以上前に書いていた田島氏の先見の明に敬服の思いである。
 本作は21世紀の必読書として世界で絶賛されており、すでに十七カ国に翻訳出版されている。日本では古屋和子氏による語りが全国で行われている。絵を担当したA.ラマチャンドラン氏は、「ヒマラヤのふえ」などで有名な現代インド美術界の巨匠であり、氏はこの作品のために、マンダラ図柄のような新しいスタイルを用いて表現している。


●ある禅僧との出会い

 田島氏がこの作品を書いたのは学生時代、まだ二十代のころであったという。ある禅僧との出会い、そして原爆投下二年後の8月に広島で生まれ育ったことも大きく影響している。

 「私の学生時代に、ある禅僧との出会ったことが私にとって運命とも言えるものでした。そのころ、激化するベトナム戦争水俣病などの環境汚染について、人間の生き方や社会のあり方に激しい怒りを感じていたのです。そうした思いを伝えようと自主講座を開いたりしてしゃべったのですが、なかなかわかってもらえませんでした。そこで考えた結果、誰にもわかりやすい現代の寓話という方法で、動物を主人公にした創作物語を書き始めてみたのです。最初に書いたのが、この「大亀ガウディの海」という物語だったんです」 


 田島氏が運命的であったと語る、ある禅僧との出会いとは、次のようないきさつであった。もともと学生時代から、ブッダやインドの詩人タゴールの哲学に憧れ、インドに渡りたいと思っていた田島氏。ある時、友人と一緒に静岡県にある龍沢寺という禅寺に坐禅を組みに訪れた。応対に出た若い僧侶は、「こんな夕方に誰が受付できるか。今日は帰らっしゃい!」と、にべもなく答えた。がっかりして、友人と一緒に帰ろうとした時、玄関先で声がした。「よしよし、座るのは寺でなくてもよい。わがぼろ家に来て酒を飲め」と、六十歳前後の不思議な人が現れた。そして、朝まで彼の家でお酒を飲みながら話を聞くことになった。彼の語る日常の世界は人間や自然の世界から宇宙にまで及び、いちいちが驚くべき内容だった。彼は高村幸平師という禅の修行者で、「現代は人や物を殺しまくっている。人や物は徹底して生かせ」と一晩中大酒を飲みながら話を聞いた。


 次の朝起きた時、田島氏は不思議な感覚に襲われた。「これまでは色々の欲求を人一倍「持ちたい!」と思っていたんですが、「持たない」という意識に変わっていました。そして何ものかに「なりたい!」という強い欲求が「ならない」という意識になっていました。「持たない」や「ならない」という意識への転換は、まるで人生のリセットとも回心とも言えるような不思議な感覚でしたね。」


龍沢寺は白隠禅師が開山され、山本玄峰師(1866〜1961)などが引き継いだ名刹である。高村師は、しばしば玄峰老師の話をしながらも、彼自身の生活現場を見せてくださったのだ。田島氏は早稲田大学卒業後は、その後一年間、建設現場で作業員として働き、そのお金でドイツのミュンヘンに遊学、幼児教育を学び、さらにシルクロードを陸路で経て、二年間、インドのタゴール国際大学大学院で学んだが、高村氏とのこの邂逅がなければ、田島氏のその後の人生はまったく違ったものになっていたかもしれない。人を生かす、物を生かす人生をキリのように追い求めたからだ。

●社会に対する怒り
 もう一つ、『大亀ガウディの海』を書いた背景には、自然環境を破壊してしまう現代の社会に対する怒りがあった。それには田島氏の小学生のころの体験、広島生まれであることも大きくかかわっている。

 「昭和二十九年(1954年)に第五福竜丸という静岡の漁船が、太平洋のビキニ環礁沖で行われたアメリカの水爆実験で、二十三人の乗組員全員が被爆し死傷するという事件がありました。そのことを思い出すのです。原爆で被爆した漁船員の姿、原爆マグロを、小学校の「光の教室」という巡回映画でも見て、小学一年生とはいえ大きなショックを受けました。それは九年前に広島に投下された原子爆弾と重なって見えたからです」


 田島氏が生まれたのは広島市から六十キロ離れた三次という町。幼いころからヒロシマ原爆の恐怖や悲惨な話を親戚や被爆体験者などから聞いて育った。原爆で被災した人々の救出に向かった近所の人々は、原爆の残存放射能被爆されたという。健康を壊した被爆者の顔が今でもちらつくという。そのような体験があるだけに、水爆によって漁民が死傷したり、被爆した原爆マグロが大量に廃棄されたニュースは幼心に大きなショックを刻みつけた。
 「原爆は過去のものではない、今も太平洋上で実験が行われているのだ、と思いました。そして、人生には夢や希望だけではない、なにが起きるかわからない世界と底知れない恐ろしさを感じました。実存的な意識の芽生えだったと思います」

 そして一九六〇年代になると、高度経済成長の下、水俣病イタイイタイ病など、次々に深刻な環境問題が発生した。多感な少年時代を過ごした田島氏は、環境問題で苦しんでいるのは人間ばかりではなく、無数の動物や生物も同じだということに痛感した。

 「水俣病で水銀中毒になった子猫が、苦しみのあまり踊り狂うさまは、実に恐ろしいものでした。自然の魚、亀、ペンギン、鯨などの動植物は、人間のような言葉をもっていないので、いつも、全身で彼らの苦しみや悩みを表現しているのです」。

こうした生き物たちが海洋汚染で苦しむさまを描いた『大亀ガウディの海』以降、田島氏は「びっくり星の伝説」(宇宙の星へプルトニウムを捨てる宇宙汚染の物語)など次々に作品を生み出しているが、いずれも、こうした幼いころからの危機感や怒りや悲しみが背景となっている。とくに『沈黙の珊瑚礁』(蝸牛新社)は、すべて海や地中へ捨てられた放射性廃棄物の物語。その中に、一番エネルギーが必要とされ、一番多く原発がつくられ、一番多くの事故があり、一番多くの石棺が作られたのがアジアという描写がある。そして最後には、深刻な汚染のため地球にいられなくなって一番最初に宇宙に脱出したのがアジア人だったというお話。中国やインドなど、現在100基もの原発を建設しているだけに、現実味のある話に感じられて胸を突かれる。


●被災地を歩いて――宮澤賢治への思い
 「昨年の3.11直後、津波の被災地を見て、あまりの悲惨さに大きな衝撃を受けました。そして、この有様は子どもたちに見せるべきだと思いました。戦後の焼け野は、その後日本がよみがえっていった時の原点です。自然災害や人災などがどういうものであるか、子どもたちによみがえっていく時の原点として見せること、感じさせることが重要だと思いました」。


 3・11以後、何度も田島氏は東日本大震災の被災地をまわった。福島のいわき市から宮城の仙台・荒浜へ入り、岩手の花巻、遠野を経て、釜石、大鎚町、両石町へ。車は使わず、すべてヒッチハイクで回る。そうすると思いがけない出会いがあり、珍しい、貴重な話も聞ける。それが田島流である。

 「東北の若者はやさしいんですね。津波が来たとき、一緒に逃げようと言っても逃げようとしない老人がいたので、そばにいてあげると言って亡くなったという若者がけっこういたそうです。それはあまり報道されていませんね。歩くからこそこういう話が聞けるんです」


 花巻や遠野を訪ねたときには、東北の土着文化の逞しさや奥深さを感じた。
「遠野では語り部の語るお話を聞きました。その時聞いたのは、白い馬と娘の悲しい恋の物語でした。人の世のドロドロした愛憎の世界の中に、人間が触れてはならないタブーや人間関係の機微などが語られていた。そのような伝承文化や語りの中に人間にとって大切な知恵が伝えられてきたんですね。近代になって、そういうところは排除して、明るく表面的で都合のいいところだけを残してきました。しかし排除されたマイノリティ(社会的少数者)の人々の中にある喜怒哀楽にこそ、素晴らしい知恵や哲学があるんです。そして岩手など東北地方には神楽や鬼剣舞などの芸能が豊かですね。それは仏教の伝達以前から自然や精霊と深く結びついたアニミズム的な存在が生活の中に生き続けていたのではないでしょうか。宮澤賢治は、はそういうものを全身で感じていたのではないかと思います。
 東北に滞在中、宮澤賢治のことが思われてならなかったと語る。賢治の生家の近くに飢饉塚がたくさんあった。そして遠野には山の中に五百羅漢があったが、それらは度重なる津波や飢饉で江戸時代や明治時代に亡くなった多数の子どもも含め人々の供養のために立てられたものであった。賢治の時代もそうであった。


 「苔むした五百羅漢の前では、人々が直面した壮絶な人生を想って手を合わせました。「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」という賢治の有名な一節がありますが、「サムサノナツハオロオロアルキ」という言葉が、賢治が人々の苦しみとともに生きてきた本質ではないかと思うんです。娘を身売りしなければならなかった家族の苦しみなどもそこに込められているのかもしれません。賢治の家は質屋さんを営んでいました。貧しい人々を相手にしていたわけですね。そのような現実に向き合っての苦しみや怒りが童話の中に森羅万象として表現されているのではないかと思います」


 インドのタゴールに憧れ学んできた田島氏であるが、タゴールよりも賢治の方がより深みや広がりがあるように感じたと語る。
 「賢治の最

大の思想は、世界中の人々が幸せにならない限り自分の幸せはない、という信仰に基づいた宇宙的な思想だと思います。世界の裏側に飢えた子どもがいるならば、自分の幸せはなんら意味がない、すぐに手をさしのべなければならないと。この世には色々な違いをもっている人たちが相互に憎しみをもって生きている、共通性を作り上げるにはどうしたらいいのか。それには、賢治が表現したような銀河系のエネルギーをもって、新しい文化や文明を作らなければなりません。21世紀を動かすのはこの思想だと思います。タゴールは最後まで、最上カーストであった自分の生活スタイルを崩そうとしませんでしたが、賢治は自らをデクノボーと称して、徹底して農民とともに生きようとしました。死の直前まで、農民のために肥料設計に苦心した生き方は実に見事です。私は「裏ノ畑にオリマス」という標識に書かれた賢治の言葉が大好きです。
 賢治と田島氏。弱き人々、苦しむ人々


両側に立ち、時代と格闘し、道を切り開こうとした人なればこそ、琴線に触れるものがあるのかもしれない。動物を主人公にした寓話を書く人であればこそ深く共鳴するものがあるのかもしれない。そして、自ら「国際識字文化センター(ICLC)という国際NGOを立ち上げ、活動している人としても、教師を辞して「羅須地人協会」を立ち上げた、活動家としての賢治に共感を覚えるのかもしれない。
 思えば、田島氏は「ヒューマン・リテラシー人間性を向上させる識字教育)」を提唱し、国境を越えて多様な運動を行っている。その運動は、自分自身の幸せや他人の喜びを共に創造できる表現力や人間力をもつことを人生の最大の目標としている。


 最も抑圧された子どもの識字教育のために、田島氏は、現在パキスタンの刑務所に収容された子どもたちを対象に、刑務所内に4館の識字図書館(キラン図書館)を設置している。これは冤罪の子どもたちへの識字教育であるが、農村コミュニティの女性の活性化のためには「雑草による紙漉きの人材研修」など、活動内容は多岐にわたっている。さらに今年1月には、インドとパキスタンを共同招請して国境を越えて製作した「平和絵本」を4冊完成させた。これは、カシミール問題で対立を深めるインドとパキスタンの国境紛争において、どうしたらインドとパキスタンが、共同で子どもたちのために平和を育むことができるか、徹底して議論した末に、ICLCが一九九八年から開始した13年がかりのプロジェクトである。こうした国境を越えた文化の共同事業をを通じて、宗教や国境を超える「ことば」を生み出そうとしている。


そして、昨年から三回にわたって、福島県原発被災地で、絵地図のワークショップを実施してきた。これは、人生で直面している深刻な課題を文章や絵や会話を通じて絵地図を作成する心のケアで、参加者自身が問題やその解決を自由に表現しながら元気になっていくための参加型表現である。このワークショップを通して、津波原発による被災者がこれまで抑制していた思いや悩みを自由に語り始め、多様な表現を通じて元気を取り戻しつつある。「文字や絵やデザイン地図は人を幸せに導くもの」というこれも田島氏が開発した心理療法で、アジアの多くの国々で実践してきた蓄積を活かしての活動である。


 「被災地を歩いて、東北の人々は、大切なものをきちんと守っていこうとする自分の意志や精神を強固にもっていると思いました。どたん場の苦しみを生き抜いた人々から次の時代が育っていくのだと思います。これまで私は、戦争や飢餓など困難を抱えた国々の人々とご縁がありましたが、これらの国々でもそうでした。人々は必死に生き、闘い、そして乗り越えていきます。」と田島氏は語った。
 たしかに、今の日本は何もかも破綻して荒廃しているように感じることもあるが、こうした体験は、人類が直面する様々な問題を先取りしているようにも見える。復興力の強い民族は、世界に先駆けて二十一世紀の国際社会が直面する「核と人類は共存できない」という課題について解決策を見つける苦しみにいると捉えればいいのかもしれない。
 「賢治の時代に原発があったら、彼はどう考えてどう対処したでしょうね。・・・・」。そう言って田島氏は微笑んだ。


●神様、知恵をください

 さて、私が津波で犠牲になられた方々への供養の大切さを力説した時、田島氏は次のようにきっぱりと応じた。

 「菩提を弔い、供養することも大事です。でも、癒しだけではいけない。原発のような人災を生み出した体制には、人間として正しい怒りをもたなければなりません。そして同時に人間としての優しも大切です。そして子どもたちにはその事実を伝えなければならない。 私たちはみんな一つの方舟に乗っている。このまま行けば、滝にさしかかって真っ逆さまでしょう。となると、子どもたちに今さしかかってる場所を正確に伝えなければならない。それは今、人間が彷徨っている位置です。それがわかると子どもたちは別の価値観で別の方にたくましく漕ぎ出すかもしれません。次世紀には私たちを超える力強い子どもが生まれるかもしれないのです。歴史や環境に真実に立ち向かことーそれが私が寓話という想像力を通じてのメッセージを書いてきた意味なのです。」。


 これは、私に対する一喝であり、あらゆる仏教者に対する一喝でもあると受けとめた。ちょうどこの原稿をまとめようとしているとき、朝日新聞(七月一四日朝刊)に掲載されたある小学生の文章が目に止まった。武蔵村山市に住む藤澤凛々子さんの投稿記事である。田島氏の語った「人間としての正しい怒り」について改めてかみしめる思いであった。一人の大人として、子どもたちにこんなことを言わせてはなるまいと思う。そして、このような魂が現れていることを心強くも思う。最後に、その全文を紹介しよう。

原発問題 神様知恵をください」

 この前、ギリシャ神話を読みました。人間に火を与えた神プロメテウスに、全能の神ゼウスは言いました。「人間は無知で、何が幸せで何が不幸かわからないからだめだ」私はずっと人間は他の動物よりかしこいと思っていました。火を使い、便利で幸せな生活を送っているのは人間だからです。

でも、大い原発が再稼働したというニュースに、ゼウスの言う通り人間は無知なのかもと思いました。福島第一原発事こは、まだ終わっていません。放しゃ能で大変なことになってしまうのに、この夏の電力や快てきな生活を優先したのです。大い原発は幸せな未来につながるのでしょうか。私が大人になるまでに日本も地球もだめになってしまうのではないかと心配です。

神様、どうか私に目先の事だけでなく未来の事まで考えて何が幸せで何が不幸かわかる知恵をください。その知恵で人も動物も幸せにくらせるようにしたいです。おねがいします。 (了)


公益社団法人 シャンティ国際ボランティア会(SVA) 大菅俊幸氏によるインタビューに加筆「在家佛教」2012年10月号より