天安門広場に、巨大な青銅製の孔子像が建てられた年
1982年、ユネスコが中国で初めて開催したアジア8か国の代表による識字教育の視察団として、私は、日本から唯一の参加者として北京に行った。それは中国が開放政策を始めた矢先のことであったので、一行は北京では人民大会堂で、政府の歴々と会談するなど最上級のもてなしを受けた。
視察には、地方都市が含まれており、孔子の生まれた曲阜の孔子の家への見学や泰山への登山などがあったが、なんと驚くことに私たちの宿泊施設は、孔子の家にあるゲストハウスであった。現在、孔子廟などは、ユネスコの世界文化遺産となり、その一帯ではだれも宿泊などできない環境であろうが、当時は賓客に解放されていたようだ。
我々は政府の最上の賓客として扱われ、美しい庭のあるゲストハウスの最上の部屋を提供していただいたが、視察団の中にもランクがあった。特に団長とか書記とかはさらにいい部屋があてがわれていた。私は当時書記に選ばれていたので、部屋も大きく、ベッドもひときわ上品な作りでできているようで、なんともおもしろく感動的な体験であった。大きな庭には涼しい風が吹いていた。
しかし翌日、孔子の墓を訪れた時、大きなショックを受けた。孔子の墓が荒れ放題の様子で胸を痛めた。掃除も全くされていないし、孔子に対する尊敬の念が感じられない。墓所一帯では文化大革命中の批林批孔(1973年8月から1976年まで続いた「批林批孔運動」は、林彪と孔子及び儒教を否定し罵倒する運動。中国の思想のうち、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間である」とといった風がまだ吹いているようであった。
文革中、孔子や儒教は封建的とされ徹底的に批判されて迫害があったからである。私たちが訪れた1982年の当時もまだ孔子は復活はしていなかっただけに、孔子の墓を案内してくれた中央政府の役人も、まるで歴史の見世物のような案内の仕方で、墓を見おろすようににやにやと笑っているようでもあった。
私は困った。孔子や儒教には、古来から日本人は多大な畏敬の念をもっていたので、それを孔子の墓の前でどのように表現してよいのか。おそらく中国の役人たちが私の言動を見ていたことだろうし、他の国からの代表も私の言動に注意を払っているに違いないと思えたので、私は廟の前で、ただ心の底で孔子への尊敬と感謝の念を表明した。しかし、このときのことは私の心には苦い記憶として残った。中国の思想や政治の流れがどうであれ、私は、墓前で、手を合わせて礼拝することを訪問団の中でも一人でも行えばよかったのではないかと・・・・悔やんだ。私には私の文化があるのだから。尊敬は態度に示すべきだと・・・・・・
それから・・・・時代は常に大きく変わっている。今や北京には高層ビルとネオンサインが輝き、天安門広場には、今や青銅製の9.5メートルの孔子像が建てられている。6メートルの毛沢東の肖像画よりも3メートルも大きい。中国はこれからどこへ向かおうというのだろうか!再び孔子をを必要とする時代がやってきたのだ。浮いたり沈んだり、時代の大きな変わり目を、今、孔子は草葉の陰でいかに見つめているであろう?喜んでいるだろうか?苦笑しているだろうか?それともニヤニヤしているだろうか?
* 批林批孔運動
1973年8月から1976年まで続いた「批林批孔運動」は、林彪と孔子及び儒教を否定し罵倒する運動。中国の思想のうち、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間である」とした。