なぜパキスタンで紙漉きを始めたのか?

1998年頃、パキスタン寺子屋式の小学校を調査訪問しているとき、私は、きらきらとした大きな瞳を輝かす大勢の子どもたちに質問したことがある。
「勉強する上でなにか欲しいものがある?文房具品ではどんなものが欲しいのかな?」すると、子どもたちは一斉に「コピー、コピー」と答えた。「コピーとはいったい何か」初めは全くわからなかった。というのも寺子屋式の小学校とは、貧しい子どもたちが通うコミュ二ティが経営するもので、電気も机も窓もないところが多い。

「コピーの機械にしては、電気は来ていないし、コピーとは一体なんだろう?」そこで詳しく訳を聞くと、コピーとは「紙やノート」を意味していることがわかった。
そこで私は、「わかった。わかった。でもみなさん、みなさんは、タクティというとても便利な石版を持っているでしょ。それならば、何度書いてもうまく消すことが出来て何度でも使える、こんなに便利なものがあるのですから」と答えると、1人の女の子が立ち上がって、「でもタクティは、いくら書いてもなにも残らないから」と言った。

通常、インドやパキスタンなど南アジアの子どもたち(5才から14才)までの学校の子どもたちは、羽子板のようなタクティという板版に白土を塗っては乾かした上に、水に溶いた墨の粉インクを竹ペンにつけて書いている。これは何度でも書き直しができるので、随分便利なものだと思っていたが、反面次に書くときには塗り直さなくてはいけないので、実にやっかいなところもある。冬の寒い時期、たくさんの子どもたちがこのタクテイ(板版)を塗り直すために小川で洗っている風景を目にしたが、実に寒そうだった。しかも冬日なので土で塗り直してもなかなか乾かない。学校の前には、太陽の陽射しで乾かせているタクティをよく見かけた。

結局、この寺子屋を訪れてみて判明したのは、子どもたちが、直面していた問題は、タクティは書いたものや記録は、すべて消さなければならないということだったのだ。子どもたちが書いたものは、記録出来ず毎日すべて消さないといけない。絵にしても宿題にしても、先生の直しにしてもなんにも残らない。考えてみると文字や絵は、紙に書いて記録しないと確かな記録とはならないのだ。

まるで浜辺の砂文字のように、寄せてくる波に消される砂文字の運命にあるものは不確かなものだ。そうか、文字を書くこととどんな素材に書くかは表裏の関係にあり、人は紙や皮などに文字を書いて記録を保存できたとき、初めて表現や伝達や保存のの喜びをかみしめたのではなかったか。岩や石に刻んだものでは持ち運びができないのに対し、紙ならば簡単に持ち運びができるし長年の保存もきく。 

そこで考えてみると、紙の使用量と教育の関係は正比例している。紙は文化のバロメーターともいうが、ノートにしても絵本にしても、日本を含め先進諸国では無尽蔵の紙を消費している深刻な状況があるのに対して、(それも途上国の膨大な森林伐採などの犠牲によって)、しかしパキスタンのような途上国のほとんどは、紙パルプを自国で生産することは非常に少なく、輸入品が圧倒的だ。だから、ノート類にしても紙パルプは非常に値段が高い。

そこで私は困ってしまった。すぐに回答が出せなかった。子どもたちの要請にどう答えるかを考え続けた。初め、日本のNGOなどの助けを借りて、寺子屋学校へ「ノートを送る運動」を組織したらと思った。しかし子どもたちの人数やその膨大なノート量を考えるとすぐに行き詰ってしまった。海外協力の哲学には「魚が欲しいと言っている人々へ、魚の缶詰を贈るのではなく、魚の採り方や養魚のしかたを伝えることが重要だ」という言葉がある。こうして悶々と考えているとき、日本のレストランの壁に沖縄のさとうきびの残滓(バガス)で作った紙が飾られているのを見つけた。「そうだ。サトウキビの残滓ならパキスタンにもたくさんある。通常砂糖を搾り取ったあとの残滓は燃料にするか、家畜の飼料にするかである。

「そうか、これを使って紙づくりを教えたらいい」と思い、イスラマバードの自宅に早速、工房を設置した。テントの下に、かまどを用意し、タキシラから大きな石臼を買ってきた。そして杵は友人に頼んで山で切り出した硬い木材で作ってもらった。そして自宅の庭や野山に生えている植物の繊維はすべて試みようとバナナの幹、葉(バナナの実を収穫すると切り倒す)、竹のささ、野生の桑の皮、茅、びわの葉、麦わら、稲わら、萱などを使ってたどたどしく紙漉きをはじめたのであった。

最初は、せんべいみたいな厚さの紙であったが、日本の和紙の漉き方のように独自な創意工夫を重ね、雑草からの紙作りの三重大学の木村先生、九州から駆けつけてくれた三塚さん、日本各地の紙漉きの技術をメールで伝えてくれた重栖さん、インドでの紙漉きの状況を詳しく伝えてくれた黒川さんなど多数の友人の協力を得て、とうとう一年後にはどのような雑草からも簡単に紙が漉けるようになった。とくにパキスタンの野生の桑(くわ)の表皮を使った紙は最高級の品質で、パキスタンの夏日にあわせて素早く紙を板に脹れる新しい方法が開発できたのは非常に効果的だった。

そうしたある日、農業技術を教えていたある友人が、「この木に触れるとかぶれる人がいて困ったものだ。でも成長が早いので役所ではこれを年中伐採している」と言って小枝を差し出した。そして「しかしこれは紙にするといい紙になるんだが」と言うので、早速それを試してみた。それは裏山に自生している野生の桑(くわ)であった。ウルドゥー語でトゥーツと言った。それは日本の楮(こうぞ)とほとんど同じような高い品質をもつパルプが出来るもので、これを契機に紙漉きは飛躍的に伸びていったた。そして庭のバナナを収穫のあとに切り倒して、その繊維も取り出した。バナナの繊維は実に美しい紙となった。

これを見て人々は驚嘆した。バナナの緑の葉から紙ができる。サトウキビの残滓から紙ができるというニュースはあっという間に広まっていった。しかし私は特定の人々だけにこうした技術が伝わると、パキスタンの状況から言ってすぐに技術の特権グループができると思われたので、なるべくすべての人々に教えようと決意した。なかでも社会的に恵まれていない環境に生きている人々に、真っ先に伝えていこうと思った。紙作りと文字の読み書きの識字教育を効果的に結びつけるためにも。


まず最初に紙漉きを伝える地として選んだのは、アフガニスタンの国境近くに住んでいる非イスラム教徒であり人口はわずか約4千人という少数民族のカラーシャの人々であった。カラーシャの人々は、その昔、ギリシャアレクサンダー大王が、インド侵略を行ったときに一緒に来た人々であると言われていて、子どもたちの目は青い。

カラーシャの地で、紙漉きを始めたとき、庭先に最初に集まってきたのは好奇心に満ちた目をしたたくさんの幼い子どもたちであった。5歳から8歳ぐらいの子どもたちが、私の紙漉きを食い入るように見つめていた。かれらはまるで不思議なものでも見るように一挙手一投足を見ている。それからすぐに10歳から15歳ぐらいのカラーシャの若者たちが集まってきた。そして午後からは若い女性たちが三々五々集まり始め、やがて成人女性が集まり、夕方近くには村の長老や村長までがこの紙漉きに参加したのであった。

パルプには、カラーシャの急斜面の谷川に生えている柳の皮、雑草、そして使い古しの紙箱などを使って、リサイクルの紙と一緒に次々と紙を漉き始めてみた。みんなの目はまるで驚異というもので、喜びに満ちていた。

次の日は、もう大変だった。もう私の指導というのではなく、彼ら自身が見ていたように行ったのである。この瞬間は「紙」という存在を、遠く都市から送られてくるのを待つのではなく、天から降ってくるものでもなく「自分たちの力で紙を創造する」、という自信に満ちた彼らの喜びの顔があった。私その日のことを忘れることができない。

しかも漉きあげた紙を板に張りだし、乾くとすぐにその紙を剥がして、その上に若者たちは線画を使って思い思いの絵を、カラフルに描き始めた。文字をもたない村に伝わっていたさまざまの動物や生活を。文字や絵で表現するという「識字」の原点の喜びが刻まれ始めた。それは長い長い間、表現したいと思っていたカラーシャの人々の心に灯がともった瞬間のように思えた。表現された絵をよく見ると、おもしろいことに描かれたすべての動物は糞をしている。家畜の周りに黒い点がたくさん描かれている。そうか、これはこの家畜は生きているという証しなのか。
独特の表現に感動した。

こうした活動をじっと見つめている子どもたちの目。その輝く目やその場の環境こそ私の求めていたコミュニテイでのノンフォーマル教育の現場であったのだ。自分たちの文化を表現でき、それを記録できる驚きと喜びが入り混じりながらカラーシャの人々のワークショップは終日続いた。
カラーシャの村に嫁いでいる日本人のわだ晶子さんは、若者たちに情熱をもって指導し、このワークショップを通じて、人々は自分たちを実に生き生きと表現し始めた。とくに子どもたちや若い女性たちは夢中だった。それからは新しい絵本や絵葉書などをクルミの殻を炭にして作った墨で描きはじめるようになり、紙漉きは収入向上にも貢献し村おこしの重要な役割を演じ始めた。この日はその記念すべき最初の日となった。カラーシャの冬は厳しく非常に寒い。そのため人々は、薪のストーブを使って暖房にしている。草木灰もたくさんある。そこで素材を灰汁で煮るのは、冬の間に行えば良かった。出来上がった紙漉きの絵は、旅行者などに買われていった。

その後、全国の農村地域で子どもたちを教えている女性の教師、キリスト教徒のNGO、障害者の子どもたち、労働省での研修、国際機関にも教えた。知的障害のある子どもは、自分で漉いた紙に絵を描きそれを受け取った人々の嬉しそうな表情を見て、大喜びし表現することに自信をつけ始めた。
そしてラホール、イスラマバード、カラチ、ハイデラバードなど全国の大学の芸術関係者なども含め55回の紙漉きのワークショップを開催した。自宅の工房へはイスラム教徒の聖なる日である金曜日にも日曜日にも人の絶えることはなかった。そして1500人を超える人々がこの技術を手にすることになった。

妻の和子は、これらの紙漉きの技術を使って、たくさんの芸術作品を作り始め、何度も国立アートギャラリーで個展を開催した。そして現在は、この技術はパキスタン全体に大きな広がりを見せ、これらの中から紙漉きの後継者も次々に育ってきた。そして、2009年現在、パキスタン教育省は全国の学校教育のカリキュラムに紙漉きを取り入れるまでに発展した。学校現場にこうのような実践教育が取り入れられたことは非常に活気的なことであった。「子どもの性的虐待を防ぐ活動を行っているNGOである「SAHIL」サヒルの会は欧米に輸出できるぐらいの品質で紙の製作を行っている。これはたったの10年間に実現したことだ。これには本当に驚いている。

そしてこの流れは、ラオスビルマ、インドへも広がっていったが、中でも南インドのダリット(不可触民と呼ばれカースト制度の中の最下層)の女性たちに3年がかりで教えていったのは新しい運動を作り始めた。彼らは生活の中でのカースト差別などを絵と文章で紙漉きの紙に表現し始めたのだ。それらは今、力強いメッセージとなり広がり始めている。

ささやかではあるが、「雑草からの社会改革」が始まり、紙漉きと共に生きた瞬間は、非常に喜びに満ちたものであったことを付け加えておきたい。