インターネットの環境をめぐる絶壁で暮らす高校生の意識ー元高校教師より

 昨今、携帯電話の普及やインターネットの発達によって、青少年の育つ環境は著しく変化しています。痛ましい事件に発展することも少なくなく、国会でも青少年の情報アクセスについて議論されるようになりました。痛ましい事件に発展しなくとも、学校内で、子供達は大きな変化をみせています。高校教師として5年間、高校生と接してきて、私が見た彼らの姿について、ここに事例紹介したいと思います。

 一つ目の事例は、携帯電話のメールに関するものです。メールは高校生にとっては主要なコミュニケーションツールであり、たとえ毎日教室で顔を合わせていても、毎晩メールをやりとりします。メールというのは、例えば双方に話す時間がとれない場合に、用件を相手に伝えることができ、時間があるときに返事をすればよいので、時間的な拘束がないのが利点です。

しかし高校生にとって、メールというのは会話と同じなので、少しでも返信が遅くなれば謝罪の対象になりますし、返信が少なかったり遅かったりすると友人から非難されるのではないかと心配になるようです。ですので、勉強をしているときでも、家族団欒の時でさえも、携帯電話を肌身離さず持ち歩き、メールが来れば即返信をします。三者面談や保護者会で、携帯電話に関する話が出ないことはまずありません。勉強中は携帯電話を保護者に預けることや、使用時間の制限をすることなど対策を講じましたが、余り効果はありませんでした。

メールをすることで連帯感を確認し、自分が友達の輪の中にいるのだという安心感を得ている状況を変えない限りは、どうしようもないのです。クラスメイトであっても、メールアドレスを交換していない者同士は友達ではなく、例えば落とした消しゴムを拾ってもらった時など、「すみません」と言ったりします。あからさまで不自然な他人行儀が教室内でたくさん見受けられます。


 携帯電話でのメールに関して、もう一つ事例があります。それは、文字に関するものです。「ギャル文字」というものをご存知でしょうか。例えば、「おいしい」とメールする場合、「おぃUぃ」と打つのです。文字の大きさや形を微妙に変えて文章を形成します。このギャル文字が、携帯電話の中だけで使われる分には良いのですが、例えば定期テストや課題、時には大学入試書類にもこのような文字を用いてしまうことがあります。高校生にしてみれば、これらの書き方は「かわいい」と思えるのでしょうが、こういった崩した文字が許される場合とそうでない場合の判断が自分ではできなくなっています。また、「わたし」という一人称に関しても、「あたし」と書いてしまうことがあります。これはメールによる弊害だとは言い切れませんが、少なくとも、教科書ではこのような表記はありませんので、大衆的な文字媒体の影響であると思います。


 次に、インターネットにまつわる事例です。パソコンに限らず、携帯電話でもインターネットにアクセスすることができるようになり、高校生は頻繁に利用しているようです。パソコンも、自宅でなくインターネットカフェなどを利用することによって、保護者の目の届かないところで有害なサイトに簡単にアクセスできます。インターネット上で、自分のプロフィールなどを公表することができ、そのページを見た人からメッセージを受信するようなサイトが人気を集めています。プロフィールには、自分のニックネームや出身学校、在籍学校、趣味などを記入することができ、写真をつけることや、日記を公開することも可能です。友人同士でパスワードを共有し、パスワードを知らない者には開けないページを作ることで、昔でいう交換日記のようなものを作ることができます。

ここで問題になるのが、いじめです。このページで、友達の悪口を書いたりすることが良くあります。また、グループの中での人間関係が悪くなることで、特定の人には知らせずにパスワードを変え、見られないようにして、その人の悪口を書くこともあります。ページが突然みられなくなった人は、当然そこで自分の悪口を言われていると察しがつき、実際に学校で顔をあわせるのが辛くなり、登校拒否になる場合があります。また、誰もがアクセスできる自分の日記に、誰のことか明らかにわかるような記述で、「きもい」や「うざい」など、読んだ本人を攻撃するようなことを書いています。書かれた本人は、今度は自分の日記に、自分を攻撃した人だとわかるような記述とともに、「きもい」や「うざい」を書き連ねていきます。


こうして関係が悪化していくのです。こういった泥沼劇は、保護者や教師の目が届かない場所で行われ、かつ、ボタン1つで消去できてしまうものなので、証拠として残らず、対処するのが非常に難しいのが現実です。学校現場では、こういった悪質な書き込みは名誉毀損などの犯罪に繋がることを生徒達に伝えていますが、インターネットサイト内での誹謗や中傷によって学校に来られなくなる生徒は少なくありません。


 インターネット上でのプロフィール公開には、次のような事例もあります。例えば自分のプロフィールに、全く自分ではないプロフィールを書き込んだり、日記にも真実ではないことを書いたりします。ある生徒は、日記に、「今日はアルバイトがきつかった」や「髪を染めました」などと書き込んでいましたが、アルバイトも髪を染めるのも学校で禁止されていたため、そのような事実はありませんでした。インターネット上の日記なので、本当のことを書く必要は全くありません。問題になったのは、それ以降です。その生徒の日記の内容は日を追うごとに過激化し、「リストカットをした」や「親に暴力をふるわれてアザができた」という内容になっていきました。生徒と話す機会を作り、日記の内容について真偽を問いましたが、生徒の腕に切った痕はなく、体にもアザはありませんでした。


生徒の日記には、読んだ不特定多数からコメントが書かれていましたが、リストカットをしたという生徒に同情したり、心配したり、気持ちが理解できるというようなものが沢山ありました。なぜこのような内容の日記を書くのかと質問してみると、過激な内容を書くことによって、より多くの人が自分のページを訪れ、コメントを残していく様が嬉しかった、と答えました。自分が認められているような気がした、とも言っていました。自分の存在をインターネット上で確認し、他者から存在を認められる安心感を得ていたのだと思います。


 プロフィール公開に伴い、不特定多数の他者と繋がることによっておこる事例もあります。趣味が同じという他者とインターネット上でメッセージのやり取りをするようなったある生徒は、その相手から実際に会おうと持ちかけられ、それを承諾しました。その相手というのは、プロフィール上では、同学年で同性で、隣の県に住んでいるということなので、安心だと言い切るのです。プロフィールの内容が必ずしも真実であるとは限らないし、犯罪に巻き込まれる危険性があると注意しても、聞く耳を持ちませんでした。後日、私の忠告を無視して相手と会ってきたが、同学年で同性の人であったと得意気に報告を受けました。危ない目にあわなくて良かった、と、胸をなでおろした次第ですが、その生徒は単に幸運だっただけであり、このようなことを繰り返せば危険にさらされる日も遠くありません。このように、インターネット上での情報が真実であると信じ込み、巷で起こっている事件などは自分の身にはふりかからないと思い込んでいる生徒は数多くいました。自分だけは大丈夫、と過信することが一番危険であるという忠告に耳を貸そうとはしないのです。


 真偽を疑う目をもたないことによって起こった事件もあります。ある生徒が、先輩の友達の先輩からきたというメールを見せてくれました。そこには、あるアイドルと一緒にカラオケに行く機会を作るから、その場所代として事前に15000円を振り込むようにと銀行口座を指定しているものでした。誰が見てもこれは稚拙な詐欺行為であるとわかるのですが、当の生徒は自分が応援しているアイドルとカラオケにいけるかもしれないし、先輩の友達の先輩という人物が、自分の知り合いの延長であるから大丈夫だと疑わないのです。決してお金を振り込まないようにと釘を刺しました。こんなことはあるはずがないし、信憑性が全くないと言い聞かせ、生徒はお金を振り込むのを辞めました。


後日、この話は嘘であったことがわかり、このメールを送っていた、先輩の友達の先輩という人物は詐欺罪で逮捕されました。その人物は、同じ手口で、50万円ほど騙し取ったそうです。私の生徒は被害に遭わなくて済みましたが、50万円分の被害者がいることを知り、鳥肌が立ちました。そんなにも多くの青少年達が、こんな詐欺の被害に遭っているのかと。メール1つとっても、その真偽が判断できないがために、被害にあっている青少年達がいるのです。
 携帯電話の普及やインターネットの発達により、情報社会が身近になればなるほど、的確な判断力を持たない青少年が被害にあう事件も多発します。また、学校という場ではぐくむ人間関係にも影響を及ぼし、文字を用いた表現方法にも変化を与えています。しかしながら規制が全ての解決策になるわけではありません。先に述べたように、バーチャル世界の中で他人とのつながりを意識し、自分の居場所を求めるようになる背景には、実際の世界で感じる淋しさや不安感の存在があります。

青少年がバーチャル世界に逃避せずとも、自己を確立し、表現する力を養えるような社会や教育を追い求めていくことが最短の解決策であるように思いますが、みなさまはどうお考えになるでしょうか。ICLCを通して、何か具体的なアプローチを見出し、行動に移したいと願っています。

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