書く力とは生きる力ー大沢敏郎さん (寿識字学校からのお便り)

2007年10月24日に亡くなられた大沢敏郎さんが主宰しておられた横浜の寿(ことぶき)識字学校のお便り(ニューズレター)を掲載させていただきます。2006年5月12日第4470号、4471号)

ちからにする
寿識字学校  2006年5月12日 第4470号

「このところ、夏日(なつび)があったり、強い風が吹き続けたり、地震も続いています。先週は、お休みでしたので、5月最初の識字です。連休中は、だいたいお天気もよく、どこかに出かけた人、休みなく仕事をした人、ゆっくりとからだを休ませた人など、それぞれに、いい時間だったことと思います。ぼくは、たまっていた(放置していた)あれこれのことを、すこし整理ができました。板を買ってきて、本棚も、ひとつ、つくることができました。部屋の中が、いくぶんすっきりとしました。(頭の中は相変わらずゴチャゴチャです)。

5月6日だけ、東京、渋谷の国連大学で開催されている、「国際識字文化センター(ICLC)]主催の連続セミナー(全8回)の第1回に参加し、センター代表の田島伸二さんのお話と、タイにあるビルマからの難民(カレン族)キャンプでの図書館活動をしてきた渡辺有理子さんのお話を聴くことができました。アジア各地で、肌理(きめ)こまかで多様な実践活動をされている田島さんのお話、いつも敬服し、勉強になります。田島さんの最近の原稿”ヒューマン・リテラシーの理念とその活動について”(アジアウエーブ誌)をすこし引用します。途中からで、ほんのすこしで申しわけありません。

「・・・・そして、咄嗟に私は教育大臣が発言した識字に関し、ヒューマン・リテラシーという新しい概念を考えついた。「リテラシー(識字)教育とは哲学や方向性を持たなければならない。リテラシー(識字)とは、ただ単に読み書き計算ができるかどうかの技術や能力の問題ではなく、豊かな人間性を有し、普遍的な目的や内容をめざすものでなくてはならない。人を不幸にし、人を殺す識字がこれまでの歴史でどれだけ推進されてきたことか、そしてそれは現在も続いているではないか。

文字によって表現される知識や技術は、人間の在り方全体に真摯(しんし)なる責任をもたなければばらない。識字とは人を生かし、争いをなくし、人間全体が信頼できる世界をつくるためにこそ存在するのではないか」と。・・・・(略)」
フランスの哲学者のシモ−ヌ・ヴェーユは、不幸な人間に対して、注意深くあり、どこか苦しいのですか?と問いかけられる力を持てるかどうかに、人間らしい資質がかかっている」と述べたそうだが、その問いかけは同じようにヒューマン・リテラシーの出発点でも立脚点でもある。ヒューマン・リテラシーとは「困っている人々に、どこがお苦しいですかと問いかけられることのできる力」−それは言葉や文字などによる表現力であるとともに、他人の苦しみの軽減のために、なにか自分にもできる具体的な行為(アクション)を作り出していける力である。

人間とは、時と状況が異なれば、だれだって例えようのない苦しみや悩みに追いやられるかもしれないが、ヒューマン・リテラシーのヒューマンとは、言葉における人間のありかたをただ頭で理解するだけでなく、なによりも言葉を実践に移していける実践的な行為を希求していきたいと思っている。インターネットの普及により、無限に情報が飛び交う時代において、認識よりも具体的な行為の重要性が問われる時代に入っているのではないかと思う」

この田島さんの文章、前後にたいへん重要なことが記されているのですが、ぼくも全面的に同じ意見です。「識字は、人間全体のこと」とぼくはこの間言い続けていますが、そのこととつながっているのではないかと思っています。この文章、大江健三郎さんの「定義集 節度ある新しい人間らしさ」(06年4.18朝日新聞朝刊)と重ね合わせて読みました。(大沢敏郎)



このお便りにはすべてルビがふってあり、識字学校の生徒さんの教科書となっているもので、文章の合間に大沢さんの識字に向けて人を励ます情熱や理想や暖かさを強く感じました。「識字」は、人を励まし人間関係を作り出す力となるものですね。大沢さんのご冥福を心からお祈りいたします。
http://www.jinken.ne.jp/other/oosawa/  生きる力、書く力