今注目をあびる「連帯(つながり)の教育」とは?

iclc20082008-09-29

「連帯教育(つながりの教育」とは、これはヒューマン・リテラシーの哲学を実現していく方法です。


第1に、連帯教育の目的は、徹頭徹尾、人間理解と世界のありのままの実態を知ること、そして国境なき対等な人間関係の創造や関係性を構築していくことを意味しています。そのためには人間と人間の連帯を阻んでいく諸課題を明らかにして、それを乗り越えるために具体的に人間同士が連帯する意志とアイデアと力を育んでいくことを目指しています。

そして、人間を、社会の光と影の両方の部分で実感することが重要で、例えば深刻な飢餓や戦争などの課題を扱うときにも、必ずその人々が有している豊かな文化理解も同時に行なうことによって、人間社会の全体を知るようにすることを目指します。

文化理解とは相手の最も誇りにしている部分に心から感動し、相手の生きている光の部分を積極的に共有しようとすることです。これを利害の絡む存在から学ぼうとすることであり、こうした文化を基礎にした連帯教育は、力強い人間理解と生きるための連帯という力を養成することにつながるのです。 

第2に、連帯教育で重要なことは、それは多様なコミュニケーション能力や多様な視点を形成していくことで、さまざまなコミュニケーション技術を実践的に多様に身に付けていくことが重要です。コミュニケーション力とは、単に語学力という相手が使っている言葉を理解するだけのものではなく、積極的に自らの考えを柔軟的にあらゆる方法でできるあらゆる表現能力や相手を受け入れられる寛容力のこと。また言語も英語やフランス語など欧米の言語だけを意味していないのです。

世界中には言葉の習得でもいろいろあり、それぞれの言葉が重要な意味をもっていることを知ることですからね。特に日本の近隣諸国のハングル語(韓国)、中国語、タガログ語(フイリッピン語)、ロシア語などは将来に非常に重要な言葉で、同時に日本のなかにおける多様な言語としてアイヌ語や沖縄語などの重要な言葉、それは文化的にも豊かな世界を育み、これを通じて日本語の素晴らしさにも気がついてゆくことを意味しているのでは。

またハンディを持っている人々とのコミュニケーションで、手話やさまざまな身体表現などを学んでおくことも、国際化の中における重要な学びですね。人間が、さまざまな条件にあることを理解することにつながります。また在日の人々や留学生、あるいは地域社会でさまざまな辛苦を経験した体験者から学ぶことは地域に深くつながる重要なリソースを活かすことにつながっていますし、連帯教育には、在日の留学生や日本に滞在する外国人や労働者の人々とも自由に参加できうる環境の育成も必要なのです。

第3に、連帯教育は質が深くて、本質的であればあるほど、その成果が見えてくるのには時間がかかります。つまり連帯教育では、乾いた大地に種を撒き、水を注ぐとすぐに目に見えて収穫が期待できるような即効主義は最も避けなければならないと思います。伝統的な価値観や地域という枠のなかで活動するときには、最も気をつけなければならないことーそれは表面的には大きな変化がすぐに表れたように見えても、実は深いところからはなにも変化していない、あるいは生みださないという結果もありますからね。

汗を流すとか新しいもので刺激するとかといったことだけに、目先にとられず「多様な人間や世界と接するためにはどのように効果的で意味あるコミュニケ−ションを作っていけるか」、あるいは「同じ地球のさまざまな人々の喜怒哀楽を知るために、地域社会のさまざまな分野で生きている人々の実体験からどのように学んで、それを伝承し創造していくか」ということでもあるのです。そのためには、連帯教育においては、地域の視点に立ちながらも、短期、長期の多様で柔軟的な戦略と取り組みが必要でしょう。

第4に、また単に頭だけで理解するのではなくて、行為や思考をともなって感動をもって理解するということが最も重要で、そのためには足や手や肉体的に実践することの意味を知ることではないでしょうか。そして人間の存在を、過去、現在、未来という時間の縦軸で捉えることーあるいは多様性や変化という横軸の中で連帯教育を推進することが望まれます。そのための明確な新しい哲学や方向性が必要なのではないかと思うのです。

第5に、例えば人間の現在と未来を理解するためには、過去の時間が重要な鍵になってくることがありますね。自国と他国の人間の歴史を誠実に学んでいくことにもつながってくることは、他人の痛みを自分のものとして痛切に感じる気持ちを育てることができるかどうかにつながる、重要な連帯教育の本質でもあるでしょう。隣国の韓国や中国との歴史の中で侵略の問題や従軍慰安婦の問題などをどのように共通理解して創造していこうとしているのか?本当に痛みをもった現実の課題を切実に課題としてどのようにとりあげていくか?これは連帯教育の最大の課題です。

第6に、連帯教育は、外に向けて理解を進める方向性から人間の内面にきちんと光を向けていくべきでしょう。アジア・太平洋地域で、識字教育の成功例と失敗例をもとに、現在、「絵地図分析」という新しい「自己発見のワークショップ」を国内外 (日本、インド、韓国、パキスタンミャンマーなど)で開催していますが、それは、近年、「人の言葉を聞くこと、自分を表現する力、あるいは文字や絵で伝える表現力の強化など、パソコンからデジタル機器にいたるまでさまざまなコミュニケーション能力の開発」が、子どもたちの日常生活の中で必要とされてきており、子どもや大人を含めて「自分がどこにいるのか?どこに行こうとしているのか?いったい何をしたいのか?」揺れに揺れて不安の中で自分探しを痛切に求めていることを知ったからです。
現代は誰しも大きく揺れて地図を必要としているのです。そのために「絵地図分析というワークショップ」を開発し、自分自身の言葉と絵とデザインを使って、自分自身の内面深くに潜在している欲求や願望や煩悶などの絵地図を作成するというものです。それは自分自身の偽りのない欲求や現実などの問題を本音で作成していくもので、連帯教育のワークショップで効果的に使うことを考えています。

誰でもよく経験あることですが、室内から出ようとして窓ガラスに当たったハエやトンボは、ガラス窓に体当たりしてバタバタともがき苦しみ、その世界ですっかり消耗して生きることができなくなってくることがあります。しかしその場所から少し離れて自分の置かれているところを見れば、広々とした自由な空間や時間がいくらでもあり、脱出口だっていろいろあったにもかかわらず、地に落ちて希望や心を失っていくことがあります。脱出口を見つけるためには、子どもたちの状況を少し距離や余裕をおいて地図の中にあらゆる可能性を見つけて分析することです。

例えば子どもたちの絵地図には、「さまざまな夢や希望と同時にさまざまな欲求や不満も文章と絵によって描かれているので、「学校を破壊したい。夫婦喧嘩を見たい。あの教師を追放したい。この教師に反抗したい。この世界はお金・お金・ お金・・」と書き綴っている子どもたちの深層からの叫びに接していると、言葉の世界が、現代社会の諸矛盾と複雑に絡んでいるのがわかってきます。

第7に、こうした具体的で深刻な問題を、どのように分析し、どのように具体的な対処のしかたを作っていくことは連帯教育の直面している最も大きな課題ではないかと思うのです。内面への旅は、現代の時代が抱えている最も重要な課題です。

今後、連帯教育の具体的な方法論やスキルを詳しく紹介していきます。そのためには、思想家、芸術家、写真家などの広範な専門家の参加にもよって写真や絵図を使った例示を豊富に紹介していきます。

問い合わせ: iclc2001@gmail.com

*1222655287*刑務所の中に子ども図書館を! (その1)
アジア・太平洋地域で識字教育や基礎教育の仕事に携わってきて痛感したことーそれは社会の中で最も抑圧され、最も困難な状況の中で生存を余儀なくされているのはだれか? そして彼らが一番求めているものはいったいなにか?

もちろんすべての人にとっては、戦争状態のない平和が一番大切だし、生存のためには衣食住のような物理的環境がよく整備されていることが基本的に最も重要な用件であるのは間違いないが、識字教育を行ってきた中で感じたことは、人間という存在は、物的なことだけではなく、精神や心の自由があってこそ幸福に存在するように思えた。

こうした精神や心の自由などが存在しないといかに物的な環境が豊富にあっても人間は幸せを感じないし、生の充足感を得ることができない。この人間の豊かな精神活動を支える根拠には、豊かな言葉があり、人を感動させる文字や文章があり、人間性を高める表現活動のすべてがあったーそこに識字の課題がすべて存在しているように思えた。特に変化の激しい21世紀には、識字の力を持っていなかったら生きていけない。

1998年の暮れ、私はパキスタン政府の社会福祉省の青少年福祉を担当している職員の要請で、刑務所に収容されている子どものための識字教育活動に参加する機会を得た。当時私は、JICAからパキスタン政府へ識字専門家として派遣され、連邦政府首相識字委員会(PMLC)のアドバイザーをしていた。私は刑務所に収容された子どもたちの実情について全く知らなかったので、まずその職員に全パキスタンで収容されている子どもの数字や実情を記した資料を要請した。

 しかし、いつまでたっても、福祉省の職員から報告書や数字らしい数字が示されない。そこで私は職員に厳しく質問した。「なぜ、いろいろの数字を教えてくれないのですか。客観的な実情を知っておかないと、つまり子どもたちが何ヶ所の刑務所にどのくらいの数で収容されており、どのような状況におかれているかを知らないと何も対処できないのはおわかりでしょう?それとも、上司から外国人にはそのような詳しい実情を話すなと口止めされているのでは?」と冗談めかして問いかけると、彼女は最初は強く否定していたが、やがて「はい。そうです。」と素直にうなずいた。

そして上司との話しあいの結果、うまく許可を得ることも出来て私にその書類を見せてくれた。それは全国にある約80箇所の刑務所に約7000人の子どもたちが収容されている書類であった。こうした数字を正確に掴むことはなかなか容易ではない。私はどの国でも、刑務所に収容された子どもたちの問題に取り組むのが困難なことは知っている。青少年の犯罪は、社会的にも深刻な課題で、特に国際的な人権問題としても広がることを各国政府は極力恐れているからだ。内部の事情は漏らさないものだ。

しかし私は「もし識字教育の協力が必要でしたら、病院の医者のように怪我をした患部を見せて下さい。頭に怪我をしているのに足に包帯を巻いてもなんにもなりませんからね。」と言って刑務所の実態調査をすることを強く要請した。こうして私は1998年に、ラワルピンディの郊外にあるアディアラ中央刑務所に初めて足を踏み入れた、そこには約4000人以上の大人と約200人を超える子どもたち(10歳から18歳)が収容されている大きな監房があった。

官房の中では、看守がいかにも威厳をもって警棒を振り回している。聞き取り調査の結果、貧困や無知のために犯罪者に仕立てられた無実の子どもたち、大人の犯罪に利用された多数の子どもたちの話をいろいろと聞いた。窃盗、麻薬運び、殺人、浮浪罪などあらゆる罪名がつけられていた。

 家庭の貧しさからくる無数の小さなジャンバルジャンの目を多数牢獄に見た。調査のとき、「助けてください。僕は誰も殺していない。僕が捕まっていることを家族に知らせて下さい!」と訴えてきた子どもがいた。これは犯罪を犯した大人が、無知な貧しい子どもを犯罪者に仕立てたケースだった。

すぐに弁護士に連絡し救援活動も始まった。リーガル・リテラシーという言葉がある。これは法的な必要な知識や情報能力などを意味しているが、自由に知識や情報を選択できる子どもたちは、世界では非常に限られている。多くの子どもたちがパキスタンでは犯罪人に仕立てられている。特に数多く存在しているのが境界をめぐっての家同士の争いで、殺人が行われたようなときには、その首謀者には必ず子どもを使うのである。

子どもを警察に突き出すのである。社会習慣ともなっているようで、彼らは決して死刑にはならない。大人は罪を逃れる。ペシャワールのような地域から麻薬を運ぶ仕事を、なにも知らない子どもたちに強制している犯罪マフィアなど、貧困な子どもを利用した犯罪が増加している。そして無実の子どもたちが多数刑務所に入っている。

 そしてほとんどの場合彼らは10年以上の刑に服しても、ほとんど復帰できるような環境には置かれないので、結局社会に復帰出来ず再犯で生涯を刑務所で暮らす多くの子どもたちの存在があった。こうした状況は、パキスタンに限らず世界的な傾向であるが、近年はますます何も知らない子どもたちに大人が武器を渡して、戦争の担い手にする子どもの数が激増している。大人は子どもを利用して生き血を吸って生きているのだと私は思った。

 こうした環境の中で、知識や想像力は、子どもたちの精神的な大きな癒しになり拠り所になり、自立の力となるはずだと思った。私は牢獄の中でなんの輝きもないうつろな目つきをしている大勢の子どもを見てなんとかして、家庭や社会や知識から遮断された子どもたちを救いたいと思った!知識や本を読む喜びは富裕な人々だけのものではない。

こうした最初の調査をもとにして、まず私はこの刑務所での最初の仕事は狭い劣悪な監獄に収容されている子どもたちに、クリケットやバドミントンなどスポーツ用具を贈呈することであった。彼らが収監されている牢獄は、実に狭い。一人が畳1畳にも満たないものだ。青白い顔をしている子どもたちに「みんな、なにをやりたい?」と問いかけるとそれは「戸外でスポーツをやりたい」という答えであった。そう。成長盛りのかれらを太陽の下でスポーツさせることが彼らの健康を確保する道につながるのだ。太陽の光を彼らは欲しいのだ。

刑務所長はこの申し出を承諾した。性急に人権問題として取り上げると、関係者はすぐに実態を遮断するために少しずつ彼らの考えを変えていくことにして、それから刑務所を訪れるたびに辛抱強く対話を重ねるようにした。幸い最初のスポーツ用具が大変喜ばれたので、子どもたちに「ほかには何がしたい?」と尋ねてみたら「かれらは将来に備えたいので、なにか技術を身につけたい」という。

そのため私は、子どもたちの将来の自立のための「新聞紙を再生する紙漉きのワークショップ」を開いた。新聞紙やダンボールをミキサーで粉砕して、色とりどりの紙で漉きあがっていくのを見て、子どもたちは狂喜した。一日中彼らの歓声が刑務所内に響いていた。かれらは物をつくるということに興奮した。

 こうした具体的な行動の中から、刑務所側や子どもたちとの信頼関係が次第に醸成されてきたとき、「もうあと少しで私はパキスタンを離れるが、最後になにをしたい?」と彼らに尋ねると異口同音に「本が読みたい!もっと知識や情報を学びたい」とまるで知や情報の飢餓人のように要請してきたのであった。私はそれを聞いてうなった。閉じ困られた刑務所のなかで最も重要なものとはなにか?

 それは自由に想像したり思考したりすることを自由に助けてくれる書物の存在だったのだ。それはそうだろう。自由な想像力は本によって創られる。刑務所内には本はあったが、しかしそれはイスラム教の聖典であるコーランだけであった。子どもたちは算数も理科も歴史も学びたい。そして物語や美しく楽しいイラストのある絵本や新聞を手にしたいと訴えてきたのであった。

私はこの訴えを聞いてすぐに、刑務所長と話をした。そして新しく刑務所の中に「子ども図書館」を設置する活動を開始した。そして識字教室の設置も始めた。これは南アジアでは初めての子ども図書館の設置で図書館が出来上がるまで実にいろいろの障害があったが、常に粘り強い説得を続けながら刑務所の関係者や新聞を通じて世論を変えていったのが成功の原因だった。

  そして最初の調査から2年たった2000年の11月、パキスタンや日本のNGOの友人など約30名の個人的な協力を得てラワ−ルピンデイ中央刑務所に収容されている子どもたち(十歳〜十八歳)を対象とした子ども図書館が完成した。建設会社の協力もあり建物の全経費は50万円。絵本や物語など1500冊以上が個人や出版社から届けられた。すべてボランティアの協力であった。男の子と女の子が本を読んでいる絵看板(ロゴ)も掲げられた。この図書館はウルドー語で「太陽の光」を意味するキランという言葉をとって「キラン図書館」と命名された。太陽の光のようにすべての子どもたちに明るい光が等しく行き渡るようにという願いからである。図書館の建物は六メートル四方だから大きいものではない。

 しかし建物をチェックしているとき、狭い牢獄から図書館の建物をじっと見つめている、牢獄からの大勢の子どもたちの熱い視線を背後に感じた。かれらは必死に助けを求めている。彼らは生きようとしている。そうだ、知識は本当に光になるのだと。そのため彼らからも図書館の本の内容についてもアンケートを集めた。幸い子どもたちの三分の一は読み書きができたので、読めない子どもは読める子どもの読書を見て刺激を受けることになった。また図書館を運営するボランティアによる識字クラスの開設も計画し、無罪の子どもたちを救うために弁護士を交えた救援会も組織された。