グンソー先生は語った。「コーリャン畑での人殺し」について

広島県は中国山脈の山懐での思い出である。私が中学生の時の話。その頃、私の在籍した中学校には屋内体育館がなかったので、雨天の体操の時間には通常の教室での自由時間に振替えられた。振り替えの授業は楽しかった。なにを勉強してもいい自由時間だったからだ。

体操の担任教師の名前は「グンソー」といった。それは彼が兵隊にいたとき、「軍曹」の階級にあったからだ。彼の本名を呼ぶ者は誰もいなかった。彼は体操の振り替え時間には決まって、戦争の体験談を生徒たちに話して聞かせた。だからいつの間にか、彼は「グンソー」という呼び名になってしまったのだが、彼は戦争での経験をまるで手柄話のように語った。

グンソーの話から、戦争の真実を生徒たちに伝えたい思いもあるようには見えたが、それよりも、好奇心が強く血気盛んな中学校2年生ぐらいの男子生徒たちに、自分が戦争の中でいかに勇ましかったかをおもしろく話したかったように思えた。今になってみると彼は戦争の話をしながらも、いろいろのことを生徒たちに伝えたかったのかも知れない。しかし彼が亡くなってしまった今となってはよくわからない。彼が話したのは、平和を作る話よりも戦争をする話の方がはるかに多かった。戦争そのものについてであった。

グンソーは肌黒く、みるからに目玉も大きくいかつい顔をしていたので、生徒たちは、彼がいったいどのように勇ましい戦争をやってきたか、興味はつきなかった。僕たち中学生は夢中になって耳を傾けた。・・・・・

ー今日は雨降りだ。生徒たちは、グンソーが教室に入ってくると、まるで教室が割れんばかりの大きな声で、「グンソー、グンソー・・・・話をしてー、話をしてー」と、話をねだった。すると彼は、嬉しそうに見えながらもなにか躊躇しているようにも見えた。彼の態度から、「これは自分自身から好き好んで戦争の話をしたのではない、生徒たちに求められたから、わしは戦争の話をしたのだ」と言いたかったのかもしれない。グンソーはいつも戦争での体験談を身振り手振りで語った。

「わしが初年兵の時じゃった。わしが初めて人を殺したときのことじゃ。中国人の捕虜を処刑せよと命ぜられてのう。困ったようのう。そこでわしは捕虜を広いコーリャン畑に連れていって、日本刀で首を切ろうとしたんじゃ。じゃが日本刀は首に当たらず、肩に当たったので、捕虜は大声をあげて喚きながら逃げていった。

人を殺すというのはすごいことじゃ。わしが捕虜を逃がしたということになると大変じゃけえのう。わしは必死でコーリャン畑の中を捕虜を追いかけていってのう・・・・捕虜は肩から血を流しながら、広いコーリャン畑の中を逃げ回ってのう・・そして最後にはわしが捕まえてコーリャン畑の中で射殺したんじゃが、わしが初年兵の時じゃった。惨いものじゃった。」

ー敵兵の処刑について、グンソーは事細かに語った。おそらく彼は相当数の処刑を担当させられたのだろう。彼はそのときの様子を、黒板に簡単な線で絵を描きながら語った。
 「軍人が処刑を行うときにはのう、囚人にまず目前に穴を掘らせ、その前に囚人を座らせるのじゃ。穴は全部自分で掘らせるんじゃ。処刑は日本刀で首を切り落とすのじゃが、首の皮一枚を残して切り落とすのが上手いやりかたじゃと言われておった。頭と胴体が離れるのではなく、首の皮一枚でくっついているんじゃ。」と語った。そして続けて。

「・・・・・・もう殺されるとわかってくると囚人も観念したように見えたのう。彼らがいったん「メーファーズ(没法師)とつぶやいたら、完全に死を覚悟しているようじゃ。」没法子(メイファーズ)とうのは中国語で「仕方ない」「どうしようもない」という意味じゃ。刀を思い切り振り下ろすと、切断された首からは血がビューとものすごい勢いで噴出したんじゃよ。そしてすぐにその体を、先ほど掘らせた穴の中に蹴落とすんじゃ」
 とそのときの生々しい話をグンソーは刀で切り落とす格好をしながら事細かに語った。なんともわれわれ中学生にとってはショックな話だった。みんな身を乗り出すようにして聞き入っていた。

ー「市外戦のときじゃった、ときどき街角の路上で、敵兵とバッタリと鉢合わせすることがあった。そのときはお互いびっくりするもんじゃ。恐ろしいもんでぇ。すぐにどちらもピストルをを撃ち合ったときのことじゃっ。戦いは誰でも恐いが、お互いに向き合った時には、逃げ出さずに最初に少しでも早く勇気をもった方が戦いには勝つんじゃのう。わしは、そのときに逃げずにすぐに後ろから撃ったんじゃ。ピストルを撃つときは、こうやってピストルを頭の上からゆっくり下ろすようにして照準を合わすんじゃ」グンソーはピストルの撃ち方をゼスチャーでして見せながら語った。

ー「あるときわしは敵の視察を命じられてのう。斥候というんじゃが、その途中にわしが森の中で野糞をやっていたらのう、ふと背後の茂みがごそごそするので、なんじゃ、ろうかと思って股下から覗いてみると、なんとのう、2人の「中国兵」がわしの尻に鉄砲を突きつけているのを目にしたんじゃ。」グンソーは苦笑いをしながらも恐怖に満ちた目つきをした。


「あああ・・殺される!」とわしが思った瞬間、わしの頭髪はすべて逆立ったんじゃよ。ほんまじゃ。ほんまじゃ。髪の毛が逆立つとはほんまの話じゃ。髪の毛が立つんでぇ。恐ろしいよのう!とグンソーは何ども何度も繰り返して言った。「わしゃ殺される!」と思ったんで、大便をしたままの姿勢で「ウオーーーーー」というような大声をはりあげていきなり立ち上がったんじゃ。すると、その声に驚いた敵兵は、あわてて逃げて言ったよ。ああ、間一髪のところでわしは助かったんじゃ。怖かった。髪の毛が逆立つとはほんまの話じゃ。」 

ー「南京の市街に入って行った時のことじゃ。ある民家で、きれいな中国女性を屋内で見つけたんじゃ。・・・・・女性は日本への留学経験もあり、日本語も話せる知的で美しい女性じゃった。」グンソーはその女性がきれいだったことをしきりに強調した。おそらく会話もしたのであろう。そして言った。「じゃがその女性が他の日本兵に見つかるとのう、酷いことをされてしまうというので可哀想じゃったが殺してしまったんじゃ。

中学生とは言え、まだ幼かった僕たちには、女性に酷いことをするというのは何を意味してのか、よくわからなかった。しかし、大人の世界には、子どもにはわからないような世界がたくさんあるように感じられた。僕にはある疑問が湧いてきた。なぜグンソーはその女性を殺してしまったのか。もっと酷いことをする他の兵隊から守るために女性を殺してしまったとグンソーは言ったが、なにが酷いこと?殺すほうがもっと酷いじゃあない!そうだ。グンソーこそ女性に酷いことをして殺したんだ。そのことを話しにくいため、グンソーはそう話したに違いない。

グンソーは、「戦争ではなんでもできる。戦争ほどおもしろいものはない。」と言っていたではないか?でもそんな恐ろしい自分がやった酷い体験を平気で子どもたちに話せるだろうか? いろいろ考えたが今となっては事実はわからない。戦争中、グンソー自身が中国女性を乱暴したり強姦したりという話は、何もしなかったが、彼の話しぶりからは、戦争中にはグンソーを含めて、中国大陸で日本の多くの軍人たちはどのような酷いことでも平気でやっていたということがよく伝わってきた。事実はどうであれ、真実を話せない体験が山ほどあるに違いない。そうした体験をもつ世代のほとんどは、口を閉じたまま自らの過去を伝えようとしない。

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雨の日には、グンソーは決まって、戦争の話をした。そして時々思い出したかのように、「戦争は酷(むごい)いもんじゃ」といったが、そのあとには必ず「戦争ほどおもしろいものはない。戦争ではなんでもできるけえのう!」と断言した。・・・・・・そうか、これが日本軍が行っていた戦争の実態だったのだ。しかしこれは中学校での授業の中での話しだから、義理的に「酷い(むごい)とつけ加えたのだろうが、実際には職業軍人にとっては酷くもなんでもなく、戦争は彼らにとっては無限におもしろかったのではないかとも感じた。その当時、日本軍の食料は、すべて現地調達であったという。つまり中国の人々の食べ物を略奪せよと命ぜられていたのだ。わずかの食料で生きている人々なのに、そうした人々の食料をとりに行ったとき、どんなに残虐な行為が待ち受けていたことか。抵抗した人々はほとんどが殺されたに違いない。

しかし話の中に、中国大陸や朝鮮半島などで、日本軍が残虐な戦争を続けておびただしい人々を殺したことへの反省などは、微塵もなかった。今から考えてみると、普通の公立学校だったら、このような話も聞けなかったかも知れない。その学校には私立中学校で、定年退職した教師や満州帰りの教師などさまざまな職歴や人生体験を持った教師がいたからだろうと思う。




 あるとき、その日は雨の日ではなかったが、突然グンソーが血相を変えて教室に飛び込んできた。そして教壇に上がって大声で言った。
「だれだ!おれを人殺し!と呼んだ奴は、出て来い!」と叫んだ。

渡り廊下を歩いていたグンソーをだれか「グンソー人殺し・・・・」と呼んだらしい。彼はそれを聞いて逆上したのだ。「人殺し、とだれが言った?おい!出て来い!おまえらは卑怯じゃ」グンソーは教壇で大声を張り上げた。クラスの全員をまるで犯人のように睨み付けながら執拗に犯人探しを続けた。


誰がその言葉を言い放ったのか僕たちは知っていたが、グンソーにはだれも答えなかった。