お母さんのカマボコ


私がまだユネスコアジア文化センターで働いていたときの1980年頃の思い出である。アジア・太平洋地域15カ国から絵本の代表的なイラストレーターを東京に招聘してセミナーを開催したことがあった。いずれの参加者も個性は強く、実に楽しい方ばかりだった。英語のコミュニケーションはみんなうまくはなかったが、絵を通じての豊かなコミュニケーションは、実に愉快で有意義なセミナーであった。

初日のこと。数カ国の参加者と連れ立って昼食に一緒に行った時、人民服を着た中国から参加者のT氏──彼は国民的に著名な漫画家でもあるが、テーブルの上に並んだ食べ物を興味深そうに見つめながら「ちょっとお聞きしますが・・・・」とたどたどしい英語で尋ねてきた。「・・・・日本の食べ物に、小さな板きれの上に乗っているおいしい食べ物があるそうですが、いったい何でしょうか?」と尋ねてきた。「ええ、小さな板切れに載った美味しい食べ物?」

私は一瞬とまどったが、板の上に載っている日本の食べ物?というのは「おそらくカマボコだろう」と思って、「ひょっとしてカマボコですか?」と答えると、彼は破顔一笑、「そうです。そうです。カマボコです。思い出しました。」といかにもうれしそうに大声で答えた。そこで昼食後、私は早速近所のお惣菜屋さんを紹介した。彼はカマボコを何本も買った。 当時は、日中国交回復がなされた頃で、中国大陸からの参加者は非常に珍しかった。
 
3週間のイラストレーターのセミナーも終わって、帰国準備をしているT氏を見送りにホテルに訪れると、氏は熱っぽい目つきでじっと私を見つめたあと、1通の手紙を差し出した。私は驚いた。「お礼を言うのなら、口で言えばいいのに・・・どうして手紙をくれるのか?」とも思いながら、すぐに手紙を開封してみると、すると文面には、セミナーでの感想やお礼がていねいにつづられてあったが、英語の手紙の終末部分に驚くことにカタカナ文字のまじった次のような文章があった。

For the sake of parting, I think I have to tell the secret of Kamaboko to you. Kamaboko is a memory of my mother.
ワタシ ノ オカーサンワ ニホンジンデス。
I am very proud of that. I can write such words in Japanese.
Farewell to my second native country!
Farewell my dear sisters and brothers!

( 訳 )
「・・・・別れに際して、私はカマボコの秘密をあなたにお伝えしたいと思います。実はカマボコは、私のお母さんの思い出なのです。ワタシ ノ オカーサンハ ニホンジンデス。このことを私はとても誇りに思っています。私はこのぐらいの日本語は書けるのです。さようなら、わたしの第二の故国よ!さようなら、わたしの兄弟姉妹たち!」

私は驚いてしまった!
「あなた日本語が書けるのですね?お母さんは日本人だったのですか?」
私は驚いて尋ねたが、T氏はただにこにこ笑うばかり。表情から察するに詳しいことは余り話したくない様子。しかしようやく納得がいった。彼がなぜセミナーの期間中、いつもなつかしそうな顔つきや、あるいは何かしら悲哀の混ざった複雑な微笑を浮かべていたのか、その理由の一端が、この手紙で一瞬にして理解できた気がした。
「Tさん、なぜもっと早く言ってくれなかったのですか。お母さんが日本人だったら、あなたは、日本での親戚とも会うことができたわけですし・・・・・もっと早く言って下さったら良かったのに・・・・」と問い質しても、彼は相変わらず恥ずかしそうに笑うばかりだったが、おもむろに机の引き出しから1冊のスケッチブックを私に差し出して見せてくれた。

それを開いてみると、今回のセミナーの思い出は、彼のユーモアたっぷりの漫画ですべて克明に描かれてあった。例えば、日本のセミナーに参加が決まったとき、中国の彼の家族全員で万歳を繰り返しているさま、日本へ出発するとき、北京空港で家族が別れを惜しんで涙を流しているさま、T氏が大きな鶴の背中に乗って(おそらくJALの飛行機で来日したのだろう)に乗って富士山の上空を飛んでいるさま、空港での親切そうなスタッフの出迎え、華やかなセミナーでの開講式等々、実に細やかでユーモアたっぷりのタッチに描かれた漫画記録であった。

そしてその中には、T氏が宿泊しているホテルの天井に、まるで枕(まくら)のように大きなカマボコをロープでつるして、それに必死でかぶりつき、ぶらさがりながら食べているT氏の漫画もあった。そのユーモラスな姿を見て思わず吹き出してしまった。しかしその漫画は、彼の日本人のお母さんに寄せる心情をいかにもありありと表現しており、目頭が熱くなるのを覚えた。日本人のお母さんが恋しかったのだ。

彼は話を続けた。カマボコのことは、子供の頃、日本人の母が語ってくれたものという、彼女はいつも日本の生活を思い出してなつかしそうに語っていたそうだが、「その母は子どもの頃に亡くなってしまいました」としんみりと語った。T氏の生まれは1931年という。1931年といえば、ちょうど満州事変の勃発した時期。日本の本格的な中国侵略の始まった年である。

どのような背景で、T氏の中国人の父と日本人の母が結びついたのか知る由もなかったが、とにかく氏の漫画は、これまでのT氏の人生が辛酸に満ちた生活であったこと、そして彼は母の愛情を感じながらもたくましく中国で生き続けてきたこと、日本に対する深い思いを、ユーモアをもって深く感じさせるものであった。そこで私は、北京で一緒に住んでいるという氏の子供たちのためにさっそくカマボコをたくさん買い求めて、帰国前のT氏に贈った。

それから3年後、私は、ユネスコの会議への出席で北京を訪れることがあった。そこで早速、T氏に連絡をとって、夕闇迫る民族飯店の私の部屋に彼を招いて、さらに話をする機会があった。そこでT氏の両親について、そしてカマボコの秘密を聞いたのであった。彼はすべてを語ってくれた。
「お父さんは、その頃、医学を学ぼうと日本へ留学していた医学生でした。お母さんは日本人の看護学生、学校で知り合ったそうです。二人は周囲の強い反対を押し切って結婚したそうですが、満州事変の勃発した1931年には一緒に中国へ帰ったそうです。そしてT氏の父は日本の侵略戦争に反対して軍医として戦場に赴いたそうです。

北京に残されたお母さんは、子どもたちを育てるために、それはそれはいろいろな苦労をしたそうです。しかし周囲の中国人社会は、敵国である日本から来た日本人の母を決して受け入れることなく、毎日毎日辛い生活が続いていたそうです。そのうち戦場で父が戦死したという知らせが届き母は毎日悲嘆にくれたそうです。そして母も最後にはとうとう食べるものもなくなり餓死寸前で病死したのだそうです。

食べるものがないとき、お母さんは、子ども時代の日本の食べ物のことを子どもたちによくしゃべっていたそうです。T氏はそれをいつも聞いていたのです。そこにはいつもカマボコの食べ物があったそうです。 板の上に載った美味しい食べ物(カマボコ)の話──それはT氏にとっては、辛かった戦争中の生活と日本人の母の思い出だったのです。

お母さんの葬式の日、T氏は悲しくて 悲しくて、家に運ばれてきた棺桶の板の上に、夢中で一日中、絵を描いたのだそうです。もちろんお母さんが話してくれたカマボコの絵、日本での凧上げの絵など、それはすべてお母さんが語ってくれた日本での生活を想像の上で描いたものだったそうです。孤児になってしまったT氏と妹は、やがて施設にひきとられたそうですが、絵の上手かったT氏は苦学して、北京の有名な中央美術学校へ入学することができ、それから中国でも最もよく知られた国民的な漫画家になったそうです。


私は彼の話を聞きながら、涙を流した。カマボコの話の裏にそのような辛い思い出が残されていたのかと絶句した。・・・・・「戦争の中で結ばれた中国人の父と日本人の母、変転する人生と彼の漫画家としての人生──私の頭をまるで走馬灯のように彼の話した人生の風景が回っていた。私はT氏に、東京から持参した梅干をお土産に手渡した。 「Tさん、これはカマボコではありません。梅干です」と言うと彼は笑った。そして彼が母から教えてもらったという日本の赤とんぼなどの童謡を思い出して一緒に歌った。
北京の夕暮れ、あたりはもうすっかり闇に包まれていた。