なぜドイツ人は、日本人はビジョンを持ってないというのか?

かって私は、2005年頃、軍政下におけるミャンマーで雑誌のインタビューを受けたことがある。長時間のインタビュー記事が掲載された後、編集者に反応を聞いてみると「読者からはかってないいい反応がありました」と大変喜んでくれたあと、「検閲はたった1か所だけでした」というのです。「それってどこでしょう」」と尋ねると「社会の事実や真実を次世代にきちんと伝えていくことが大切だ」としゃべったところがすべて削除されたとのこと・・・「なるほど」軍事政権とは、いつも事実や真実を伝えていくことを極度に恐れていると痛切に感じたことでした。

原発ゼロ社会を達成したドイツのある専門家が、「日本には世界に誇るものはたくさんあるが、ビジョンがない」と言い切った。ビジョンがないということ、それは「日本人は、刹那の時間内でしか具体的に物事を把握できない民族」だということである。つまり50年後や100年後など未来へ向けての日本人の生き方の時間空間を描けないということである。確かに近年、日本には、ビジョンらしいものは全く生まれていない。その理由は、現在形は余りにも忙しく、過去にも未来にも目を向ける時間的な余裕が全く無かったということもあるが・・・ 

なぜビジョンが日本に生まれないのか?その答えは明瞭である。未来とは、現在から描くものではなく、過去の膨大な時間の中から描いていくもので誕生するものである。考えてみると、日本は歴史問題に限らず、自分たちにとって忌まわしい体験はすべて忘却しようとしている。そして事実ではない日本の歴史を「教育の名を借りて」強制しようとしている。近代における日本の侵略戦争従軍慰安婦もすべて忘却、自らの言い分だけで歴史教育を行おうとしている浅ましい姿がある。                                                    ビジョンとは、過去に経験した厳しく辛くさまざまな経験の中から育まれてくるもの。過去の事実や真実を、これを次世代の子どもたちや若者に伝えていくことは、こうした時代を生きた人間たちの大きな義務であるが、それがきちんと果たされていない日本。まるで放射性物質の垂れ流しのように無責任な日本なのである。これでは「原発の収束や未来はおろか」、「子どもたちの避難」や「膨大な放射射廃棄物の処理」など深刻な懸案事項などに、全く対応できない頭になっているのは間違いない。これは実に悲しいことであり、恐ろしいことだ。未来への対応ができない民族になってきた中で、「平和憲法」を「戦争憲法」へ変える動きがでてきており、平和という空間が足元から大きな音とともに崩れさっている。                                                
今日、最も重要な近隣諸国の中国や韓国とあるべき外交関係を結べない根源には「日本が過去の戦争についての反省が全くない」ということからくるが、そもそも「靖国参拝」が意味しているものは、日本がかって「侵略戦争を遂行した時のリーダーであるA級戦犯を祭ってある」ということを意味している。これは日本人が過去の戦争責任の清算を誠実に行っていないということが、未来に向けての日本人の生き方まで奪っている。従軍慰安婦の問題も南京大虐殺にしても真実を伝えることが最も重要だ。子どもや若者たちが、未来へ向けてビジョンを築くためには砂上楼閣のように真実ではない日本社会では、あっという間に小さな波でも崩壊してしまうのである。
                                                  陰のない人間存在はどこにもいない。いかなる文明にしても同じ。率直に陰を認めて謝罪しない限り、未来の形は決して生まれては来ない。日本人には、放射性廃棄物と同じく、絶対に水に流してはならない過去があるのだ。その痛みを痛切に感じながら、未来の日本がが作られなければならない。戦争への反省も、全く知ろうとしない政治家から「美しい日本」やビジョンが生まれてくるはずがない。