カマボコの秘密と日中戦争

カマボコの思い出

1979年の国際児童年を記念して、ACCUで、アジア・太平洋地域15カ国から児童書を描いている代表的なイラストレーターを東京に招聘してセミナーを開催したことがあった。いずれの参加者も個性は強く実に楽しい方ばかりだった。参加者は、いずれも英語のコミュニケーションこそ上手ではなかったが、絵を通じての豊かなコミュニケーションは、実に愉快で有意義なセミナーであった。

初日のこと。数カ国の参加者と連れ立って昼食に一緒に行った時、人民服を着た中国からの参加者の漫画家のT氏が、テーブルの上に並んだ食べ物を興味深そうに見つめながら「日本の食べ物の中に、小さな板きれの上に乗っているおいしい食べ物があるそうですがいったい何でしょうか?」
と尋ねてきた。
「小さな板切れに載った美味しい食べ物?」
私は一瞬とまどったが、板の上に載っている日本の食べ物というのは「おそらくカマボコだろう」と思って、「ひょっとしてカマボコ?」と答えると、彼は破顔一笑、「そうです。そうです。カマボコです。」
といかにもうれしそうに大声で答えた。そこで私は昼食後、早速近所のお惣菜屋さんを紹介した。彼はカマボコを何本も買った。
 
3週間のイラストセミナーも終わって、帰国準備をしているT氏を見送りにホテルに訪れると、氏は熱っぽい目つきでじっと私を見つめたあと、1通の手紙を差し出した。私は驚いた。「お礼を言うのなら、口で言えばいいのに・・・どうして手紙をくれるのか?」とも思いながら、すぐに手紙を開封してみると、するとそこには、セミナーでの感想やお礼がていねいにつづられてあったが、英語で書かれた手紙の終末部分に驚くことにカタカナ文字のまじった次のような文章があった。

…For the sake of parting, I think I have to tell the secret of Kamaboko to you. Kamaboko is
a memory of my mother ―ワタシ ノ オカーサンハ ニホンジンデス。
I’m very proud of that, I can write such words in Japanese.
Farewell to my second native country!
Farewell my dear sisters and brothers! 

訳 「・・・・別れに際して、私はカマボコの秘密をあなたにお伝えしたいと思います。実はカマボコは、私のお母さんの思い出なのです。ワタシ ノ オカーサンハ ニホンジンデス。このことを私はとても誇りに思っています。私はこのぐらいの日本語は書けるのです。さようなら、わたしの第二の故国よ!
さようなら、わたしの兄弟姉妹たち!」

私は驚いてしまった!!「あなた日本語が書けるのですね?お母さん、日本人だったのですか?」
そう言って尋ねてもT氏はただにこにこ笑うばかり。なにも明確に答えない。しかしようやく納得がいった。彼はなぜセミナーの期間中に、いつもなつかしそうな顔つきで、あるいは何かしら悲哀の混ざった複雑なほほえみを浮かべていたのか、その理由の一端が、この手紙で一瞬にして理解できたような気がした。
「Tさん、なぜもっと早く言ってくれなかったのですか。お母さんが日本人だったら、あなたは、日本のお母さんの兄弟や親戚とも会うことができたわけですし・・・・・」と問い質しても、彼は相変わらず恥ずかしそうに笑うばかりだったが、おもむろに机の引き出しから1冊のスケッチブックを私に差し出して見せてくれた。

それを開いてみると、今回のセミナーの思い出が、彼のユーモアたっぷりの漫画でびっしりと描かれてあった。例えば、日本のセミナーに参加が決まって中国の彼の家族全員で万歳を繰り返しているさま、日本へ出発するとき、北京の空港で家族が別れを惜しんで涙を流しているさま、T氏が大きな鶴の背中に乗って(おそらくJALの飛行機で来日したのだろう)に乗って富士山の上空を飛んでいるさま、空港での親切そうなスタッフの出迎え、華やかなセミナーでの開講式等々、実に細やかでユーモアたっぷりのタッチに描かれた漫画記録であった。

その中には、T氏が宿泊しているホテルの天井に、まるで枕(まくら)のように大きなカマボコをロープでつるして、それに必死でかぶりつきぶらさがりながら食べている漫画もあった。
それを見て思わず吹き出してしまった。しかしその漫画は、彼の日本人のお母さんに寄せる心情をいかにもありありと表現しているようで、目頭が熱くなるのを覚えた。お母さんが恋しかったのだろう。彼は話を続けた。カマボコは、子供の頃、日本人の母が語ってくれたものという、彼女はいつも日本の生活をなつかしそうに語っていたそうだが、その母は子どもの頃に亡くなってしまいました。」としんみりと語った。T氏の生まれは1931年という。1931年といえば、ちょうど満州事変が勃発し、日本の本格的な中国侵略が始まった年である。
どのような背景で、T氏の中国人の父と日本人の母が結びついたのか知る由もなかったが、とにかく氏の漫画は、これまでのT氏の人生が辛酸に満ちた生活であったこと、そして母の愛情を感じながらもたくましく生き続けてきたこと、日本に対する深い思いを、鋭くユーモアをもって感じさせるものであった。そこで私は、北京に住んでいるという氏の子供たちのためにさっそくカマボコをたくさん買い求めて、帰国前のT氏に贈った。


それから3年後、私は、ユネスコの会議出席で北京を訪れることがあった。そこで早速、T氏に連絡をとり、夕闇迫る民族飯店の私の部屋に彼を招いて、さらに話をする機会があった。そしてT氏の両親について、そしてカマボコの秘密を聞いたのであった。
「お父さんは、その頃、医学を学ぼうと日本へ留学していた医学生でした。お母さんは日本人で看護学校へ行っていて知り合ったそうです。二人は周囲の強い反対を押し切って結婚したのですが、満州事変の勃発した1931年に一緒に中国へ帰ったそうです。お父さんは日本の侵略戦争に反対し医務官として戦場に赴いたそうです。北京に残されたお母さんは、子どもたちを育てるためにいろいろ苦労したそうです。しかし周囲の中国人社会は、敵国である日本から来た母を決して受け入れることなく、毎日辛い生活が続いていたそうです。そのうち父が戦死したという知らせが届き母は悲嘆にくれたそうです。そして母もとうとう最後には食べるものもなくなり餓死寸前で病死してしまったのだそうです。食べるものがないとき、お母さんは、子ども時代の日本の食べ物のことを子どもたちによくしゃべっていたそうです。そこにはいつもカマボコの食べ物があったというのです。

板の上に載った美味しい食べ物―カマボコの話―それはT氏にとっては、辛かった北京での戦争中の生活と日本人の母の痛切な思い出だったのだ。お母さんの葬式の日、T氏は悲しくて 悲しくて、家に運ばれてきた棺桶の板の上に、母を思い出しながらT氏は夢中で絵を描いたのだそうです。
そこにはもちろんカマボコの絵や、日本での凧上げの絵など話してくれた日本の生活が描かれており全部想像の上で描いたのだそうです。
母が亡くなり孤児になってしまったT氏と妹は、それから施設にひきとられたそうですが、絵の上手かったT氏は周囲に助けられ苦学しながら、北京の有名な中央美術学校へ入学することができ、それから中国でも最もよく知られた漫画家になったそうです。なるほど、彼が描くパンダの漫画は、彼の生き方をそのまま表現しているようでした。ユーモアを一杯表現しながらも、さびしそうな・・・・。
私は彼の話を聞きながら、涙を流した。カマボコの話の裏にそのような辛い思い出が残されていたのかと・・・・・変転する人生―戦争の中で結ばれた中国人の父と日本人の母、私の頭の中でまるで走馬灯のように彼の人生の風景が流れていった。

私はT氏に、東京から持参した梅干をお土産に手渡した。
「Tさん、これはカマボコではありません。梅干です」と言うと彼は微笑んだ。そして彼が母から教えてもらったという日本の童謡“赤とんぼ”など思い出して一緒に歌った。北京の夕暮れはもうすっかり闇に包まれていた。

(1983年)