青い鳥のいなくなった日本ー2

しかし、よく考えておかないと、”いじめ”の範囲が無限に広がっていくようになり、それは一種の”いじめ”狩りになっていくかもしれない。そして表面的な規制や管理を行うようになっていくと大事な人間の本質を失うことになるかも知れない。「人間のかたちや関係性」が自由に見えなくなってくる。それは決して”いじめ”を許すというのではなく、人生は、やさしい言葉だけや表面的な規制を求めているのではないことも知っておかないといけない。要するに、”子ども”にとって人間の生き方や世界の真実を伝えていく必要がある。それがいつでも最も望まれていることだ。

 いじめてる本人も自分がいじめられたらどうなるか、とかいうようなことを全く考えてもいない、想像もできない。こうしたことを教えるのが、人間が社会の中で生きていくための勉強ではないか。人間社会では、対人のコミュニケーションのとりかたが最も重要なスキルとなってくる。がそれは、対国家間も同じだ。かって日本が行った戦争では、周辺地域の国々のおびただしい人々を踏みつけ傷つけ殺したのに、そうしたことをカラリと忘れようとする日本人の歴史認識や姿勢からは、人の痛みを思いやるような豊かな想像力は生まれてくる余地はないのかも知れない。想像力を豊かに育むためには、忘れてはいけない。人を踏んだことを!!忘れてはいけない。人をいじめたことを!

いじめの問題とは、異質なものや個性を認めないところからも起きているが、性格や才能が一致しない子も、集団の中から追い払われる傾向がある。「要するにお前は、ウザイんだよ!キモイんだよ!死んでしまえ」と言われたら・・・あなただったらどうする?そう。いじめに屈しないように強くならないければならない。また同時に"子ども”をたくましく鍛えなければならない。  言葉の暴力にも肉体的な暴力にも・・・・この課題は、日本社会の病理が噴出しているだけに、「いじめ」をさらに社会や人間を学ぶ題材として、いじめを、人間の「社会システム」や「差別」や「歴史」や「異文化教育」などの中に無数に存在しているものと深く結びつけて考えることが必要だ。日本にも世界にも根は共通しているから。そしてそこから自分と社会との関係性に気づかせる新しい「人間関係論」が必要だ、特に日本社会では。

結論として考えると、こうした本質的な存在を考えたり変えていくためには、いじめをする「子どもだけ」を排除したり、いじめた本人を罰しようようとする管理社会的発想と方向性だけでは決して本質的な解決策にはならない。やはり、日本の大人の生き方や社会のありかた、そして何よりも「教師」の創造性と自由な責任制、現代を「たくましく生き抜くための言葉の役割」などを育む自由な教育環境などを作っていくことが最も望まれているのではないか。

しかし現実には行政面から「物言えば唇寒し・・・」という時代が音をたててやってきている。表現の自由や真実に基づいた教育の機会が教師の手から次々に奪われ、「「自由」や「創造性」などは、どこかの海岸へ打ち捨てられながら、日本病は深刻な形で官僚の手によって進行している。そしてこうした状況を憂える教師に対する本格的な「いじめ」が始まるのも時間の問題になっている。
 
 生きていくこととは真実の”声”で叫び続けることだ。そして社会では”多様性”や"個性”が最も必要だということも身をもって勇敢に表現し続けなければならない。それが"人間的に生きようとする者の最も大切な言葉ではないか