ミャンマーの教育内容を大きく改善したCCA(こどもの感性や体験を主とする)授業

小学校教員養成のワークショップは、2006年6月に10日間の日程で、ビルマミャンマー)の北部にあるシャン州の州都であるタウンジの高等学校の会場で始まった。このプログラムは民主化を促進する目的でJICAの「基礎教育改善計画」の一環のプログラムとして、2001年から始められており、私は当初より専門家として、6年にわたってCCA(児童中心主義教授法)の教育事業に参加している。これはその報告だ。

プロジェクト全体では、これまでに7冊のCCA教授法の指導書と視聴覚教材など70点が開発されて、さらに普及活動も行っている。これらの教材開発にあたっては、私自身、これまでアジア地域のユネスコ活動を通じて体験した識字教育の経験と技術を駆使して行ったもので、アジア地域でも最もレベルの高い質を有しているのではなかと思っている。ミャンマーの現実に適した教授法と教材が、教育大学の教師と共同で開発されたことの意味は大きい。
 それは一言で言って、教育における”自由"と創造性である。これは、この軍政の教員にとって最も重要な要素である。人道支援の最たるものと言えよう。

ビルマには135の、民族がいると言われているが、この2006年6月のセミナーには、参加者は北部からシャン州のパオ民族、シャン民族、モン民族など10民族からなる現職の小学校教員が参加した。セミナーの目的は、ビルマにおけるこれまでの伝統的な暗記教育や教師による一方的な教授法などを改善し、教師や子どもたちが自分で考えながら創意工夫や実践の中から学んでいく教授法をカウンターパートとともに共同開発し、現場の小学校教師などに伝えていく人材養成ワークショップであった。ミャンマー全地域の教育大学の教師を養成しながら、各地に出向いてワークショップを行う。JICAも時には、先進的なプログラムを行うが、それが成功するかどうかは、熾烈な闘いに誠心誠意を賭けるかにかかっている。それには民主化が最も重要な課題であり、それは教師の基礎教育研修が要となっている。

シャン州で行ったある日のワールショップを紹介しよう。

それは簡単な適正機材を使って、小学校の理科の実験を行うことであった。まずこのワークショップでは、朝の太陽の光で虹(詳しくはプリズム)を作る、簡単な現地の器具を用いて実験をやることから始めた。日本のように既成のプリズムがあるわけではないので、小さな現地にある教員が手にしている手鏡を使った。

「誰か鏡を使って虹を作るやり方を知っていますか?」と聞くと数人が手を上げたので「それではどうぞプリズムを作ってください!」と言ってやってもらった。しかし彼らはどうしてもできない。洗面器にいれた水の中に鏡を入れ、太陽光を反射させてそれを天井に映し出すだけなのだが、太陽光を反射する角度がなかなか困難な問題なのだ。

そこで、「虹を作るには、このようにして作ります」と角度をきちんと説明しながら実演するとみんなうなずく。鮮やかな虹が天井に美しく映しだされ、みんなうっとりと見ている。朝日で映し出される虹は本当にきれいだ」「こんな小さな鏡1枚で、理科の実験がこんなに簡単にできるのです。」と話を続けながら、
「これは太陽光が水の中で屈折して、このような色を映し出しているのですが(民族によっても地域によっても虹の色の数え方が違う)山にかかる美しい虹も、太陽光が大空の雨粒で屈折する原理と同じことですね。朝、教室の天井に映し出して、子どもたちに見せてやってください。きっと驚きます。この驚きこそ科学するということに最も大切なことなのです。子どもの感性はとても柔らかいですからね、すべてを感じていて、すべてを吸収しますから、こうして感動したことは終生忘れません。」と説明する。




そして続けて「そしてどんな変わった質問を子どもたちがしても、決して叱ったりせずに、そして、もし自分にわからなかったら「例えば、太陽はどうしてあるのですか? どうしていろいろな種類の動物が生きているのですか?というような難しい問題を問われても、そのときには、先生にもよくわかりません。先生にもわからないことが世界や宇宙にはいっぱいありますからね。もしみなさんが、勉強してわかったら私にも教えてくださいね」と言ってあげて下さい。「すると子どもは一生懸命に勉強して先生に教えようと努力するはずです。こうした励ましこそが大切だと思うのです。子どもたちを心の中から激励することがCCAの感性教育の最も重要な要素なのです。」などと思ったことを話してみた。みんなうなずきながらよく聞いている。

次にふたつのバケツを机の上と床の上に置いて、「高みから低いバケツに水をホースで運ぶにはどうするか」と質問する。そのときは、黒板に高い山を描いて、「その湖から高い山を越えてどうやって麓の家々へ水を運ぶか?水は汚いので口で吸い出してはいけません」と言って「だれか出来る人は?」というと数人が手を上げる。「それではやってみて下さい」というとどうしてもできない。そこで、他の人に言ったらその人はうまくできたので「あなたは、それをどうやったらできたのか、みんなに説明して下さい」というと彼は早口で説明する。そこでみんなに「わかりましたか?」と聞くとみんな「わかりました」といつものように全員で大声で答える。

そこですぐに「わかった人はこちらの教壇の方に来てください」というと、なんとその数はわずかに7−8人しか増えていない。要するにみんなわかっていないのだ。そこでわかったといって教壇近くまできた人に、「では、やってみてください」というと再び出来ない。(すると後の方で、このような難しい質問にも簡単に答えることができる教師も中にはいるという声が聞こえてきた)そこで私は、「もちろんどこのクラスにも難しい質問にすぐに回答できる子どもは一人二人はいます。理解力や推理力の優れた子どもはね・・・しかしいまやっている基礎教育の教え方は、こうした少数の優秀な子ども一人二人を生み出すのではなく、みんながよく理解できるように、わかりやすくおもしろく激励していくことが必要なのです。学校の校長室にかかげてある成績優秀児を数人生み出すのではなく、すべての子どもたちが自分なりの体験を通じてきちんと感覚を通じて理解する楽しい授業の創出こそが必要だとは思いませんか?学習内容を意味もわからずに暗記したり、頭に一方的に知識を塗りこむようなやりかたではないのです。これがCCAの学習というプロセスの意味だと思います。頭で理解したことを実際に自分で実行できる力なのです。
そして「この水の移し方のやり方がわかったという人はやってみて下さい」と言ったが、まだできる人が出てこない・・・・そこで「誰かわかる人は?」と言うと、その中から精悍な感じの教師が見事に水を出して見せた。そこで「ではあなたは、みんなもよくできるように説明して下さい。優しくわかりやすく説明してください。」すると彼は、丁寧にジェスチャーを交えながら説明する。男性はガソリンの給油のときにホースを使っているのでよく知っているのだ。そうしたらそれを見ていた多くの教師たちが、簡単に出来はじめた。「そうです。そうです。こうした実験はゆっくりとステップを踏んで、教えていくことが大切なのです。こうやって子どもたちに辛抱強く教えないとなかなか伝わらないのです」そういうと、みんな子どもたちを教える教師の身であるだけに深くうなずいて聞いている。

第1高校の会場に移って、エッセイを書く練習の一環として、第一会場で「薬草の本作り」、第二会場で「村でのおもしろい物語」、第三会場で「私が災害にあった経験」そしてここでは創作のやり方について話をし、自分で著作した「The Lonely Foxーさびしいキツネ」の話をしてみた。話のあらすじは、「山に住むキツネが山の環境破壊で山を追われ、とうとうキツネをやめて、人間の会社員に化けるが、その会社は毛皮の会社だった。・・そのため毛皮を獲りに自分の故郷に向かわねばならなくなる物語であるが・・・聞いているもののなかには、涙ぐんできた者もいたので、こちらも悲しくなってきたが、とにかく物語のメッセージが確実に伝わっていくのを感じる。こうした物語を話した刺激のあとに、各地から集まった教師たちにエッセイの書き方を、約(約80名X5会場)400名に向けて話をしたが、これまでの体験がすべて生きてくるような気がする。シャン州の深い山のなかで、みんな体全体で聞いているのがよくわかる。

6月22日の早朝、午前5時40分。外からは早朝の物売りの声が響いてくる。仏教説話がマイクを通じてタウンジの山間の町に響いている。午前中に、連れのミャンマーの専門家と議論したことがある。教育における「創造性」という意味についてであったが、私は次のように答えた。
「創造性とは、私の考えでは「三つの側面があるのでは・・・・そのひとつは、なんでも物事を他の位置から見たり考えたりすることのできる柔軟的な能力、それを創造性ともいうのではないか。どんな存在でも考えでも、裏から表から横から下から中からと見方や考え方を違えると新しい視点がでてくることがあるが、そのような多様で柔軟な視点に立つことができることは、創造性の中でも非常に重要な側面ではないか。

二番目には、自分自身の力によってオリジナルで作り出したアイデアと考えとか発見も創造性という。これは文句なしに創造性と呼ばれてもいいが、しかしオリジナリティのある創造とはだれにも容易にできるわけでない。そしてその普遍性を誰にも簡単に確かめられることもできないときがあるからなかなか困難ではある。しかしこれはとても重要な創造性でこれが基本的には原点にあるが、コロンブスの卵のようなものである。

そしてさらに第三番目の創造性とは、物事の普遍性について本質的に考えることができる能力を言う。これは科学的で客観的な事実とか、真実とかを意味するが、これに基づくと発見や議論は非常に創造的なものになるが、実際はなかなか難しいものだ。しかしこうした普遍性を知るためにこそ勉学は存在している。

そして、創造性の中では、これらの三つの要素が合体することもあるが、本当の創造性は人々になかなか理解されないことも多い。創造性とそういう側面をもった存在である。例えば 10名のうちで9名があることについて賛成しても、残りの1名が彼の創造的な意見をもって反対することがある。そのとき彼は少数者であっても、上の三つのうちのどれかに信念をもって反対することは創造性を形成する上では実に大切なことで、そういう視点をもって本質的に考えたり批判でき得る能力をCritical Thinking ともいっている。

欧米には「批判できない者には能力や才能がないとする考えがある。批判することによって社会は発展する。批判できない者はこの社会に住むことはできない!」というような考えを持っているが、これは欧米で発達した民主主義の根元に存在している批判的精神のことです。
私は、物事を批判することはもちろん必要だが、批判する能力と同時に、物事を創造的に考えたり、創り変えたり、創り出したりしていく精神と実行こそが最も重要ではないかと思っているのです。それがミャンマーでは今、最も重要な考え方です。 「そうは思いませんか」 と尋ねてみた。彼らは全身でうなずいたが、声に出して同調できないところがこの国の民主化を阻んでいる深刻な政治状況だ。こうした政治状況を改善していくためにも新しい教授法が存在している。彼らの必死な目は、この国の政治の現実を如実に表わしている。

2006年6月23日(金曜日)
今日は第4高校を会場に2つのセッションを、第1高校での会場では3つのセッションを行った。連れがどこかの高校に教育長と行ったので、自由にのびのびと話ができたのは実によかった。
「ミンガラバー。こんにちわ。今日はみなさんは、一昨日、お願いしたように、近所に生えているシャン州の薬草やハーブについて、現物とともにたくさんの知識や情報を持ってきたと思いますが、それらの知識はあなたの両親や祖父母などが持っていたものですね。でも両親や祖父母たちも彼らの両親や祖父母から言い伝えで聞いてきており、そうやって考えていくと、こうした知識はシャン州では何百年も前から伝わってきたとも言える貴重な口承伝承なのです。

あるとき、私はアジアの国々で、3千もの言い伝えを知っている老人の語り部に会ったことがあります。彼は「このごろ若いものは誰も私のしゃべることに耳を傾けてくれない。」と嘆いていました。「みんなテレビに熱中して、若い者が話を聞いてくれないんだ」と、いうのです。考えても見て下さい。もし彼が亡くなってしまうと、なんと3千にものぼる貴重な話もこの地上から消えてしまうのです。

ですから、家族の中の年寄りや近所の物知りの人に耳を傾けましょう!彼らも若い人に話をすることによって生き甲斐を感じますから。教育というのは、さまざまな世代と深いコミュニケーションを作ることなのです。学びの場は学校の場だけでなく、家庭にもコミュ二ティにも存在しているのです。これらの授業は、簡単にあなたたちの学校のクラスの中でいくらでもできます。4学年、5学年の子どもたちはいくらでもそれをできる能力をもっています。

シャン州の豊かな山々にあるさまざまな薬草は、医学の発達した現代でも実に貴重なものです。現代医学でも治らないような病気でも治癒させる働きをもっているものもたくさんあります。口承伝承をきちんと記録しながら再生していくこと、自然のなかから伝統的な薬を見つけ出すことーそれは21世紀のサイエンスの課題でもあるわけです。」とそのようなことを語ったがみんな深くうなずきながら聞いている。「また他のセッションでは、「おもしろい話」や「災害にあった話」などを聞きだして、そしてそれを書き出して本にしています。

「薬草の話」だけでなくこのようにさまざまなテーマでも同じように本を作って、皆でこれを利用できるのです。ところで、本には表紙というものや目次やページなどがありますね。それをつけてください。そして最後のページには必ず、グループ名と参加者全員の名前を記して下さいね。それは大切な記録になります。これを写真にとってCDで残してみんなにもいきわたる様に努力してみます。これはみんなにとっても貴重な自然のリーソースなのです。そしてみんなの協力で作り出した本を教室で実際に使うのです。」

そういって話をしたら、みんな発奮してものすごい勢いで薬草の本作りにとりかかった。そのとき通訳の女性と一緒に、一人の年配の教師がいかにも低姿勢でヒヤシンスのような植物をもってやってきた。そして私に向かってミャンマー語でなにかをしゃべった後、球根のついた植物を私に差し出した。私はなんのことかわからないので通訳に「どういうことですか?」というと「この教師は、あなたに球根を差し上げたいと言っています。「この球根を半分に切って、その汁を頭につけてください。あなたの髪の毛が1本1本元気にはえ始めくるそうです。実証済みだそうですから・・・どうぞ。」とのこと。

ハハハハハハ・・・・私の薄くなった禿げ頭を気遣ってくれたのだ。大笑いもいいところだ。そこで早速、私は、それを目前で半分に切って、頭にこすり付けてみた、するとなんとなく毛髪が生えてくような気がするから、シャン州での「薬草の本」作りのセッションはなんとも言えずおもしろい。通訳も交えてみんなで大笑いしながら、ひそかに「ひょっとしたら本当に生えてくるかもしれない。なにせシャン州の山奥から採集したものだから・・・」と期待しながらも頭に手をやって大笑いしたワークショップであった。夕食時に連れが、「再度こちらへくるときには、ひょっとするとあなたの髪の毛がふさふさしているかもしれませんね。」というので「そうであればいいがね・・・いや、もしかしたら髪の毛が一本もなくなってツルツルの頭になっているかも・・・・あの教師が、「あとから、すみませんでした。薬草を間違えました。頭髪が落ちてしまう植物でした。」と報告してくれても手遅れだからね。」と言って二人で大笑いしたものであった。

第4高校でも第1高校でも「薬草の本」作りを指導した。あと第4高校の違うセッションでは、「おもしろい話」作りと「災害の話」、の二つをやり全部で17冊の本が誕生し、今日のワークショップはなんとかうまくいった。詳細に見て行くと課題も多々残ったように思えたが、ワークショップをやっているとき、そして終えたときの参加者の嬉しそうな顔を忘れることができない。ワークショップに参加していることが楽しくてしょうがない、人生で一番感動したというような熱っぽい顔をしている。今日の「薬草の本」作りのワークショップは、ミャンマーシャン州では初めての試みで、実にユニークな授業ではないかと思う。

第一のセッションの部屋でそれぞれ参加者が持ち寄ったものすごい量と多様なシャン州の薬草やハーブを参加者が吟味しながら議論しているのを目にしたときに痛感した。要は彼らが自信をもっていることから、CCAを始めることなのだ。みんなA4用紙にセロテープなどを使って次々と貼り付けていく。そして本が誕生していく。その嬉しそうな表情には驚かされる。その感動を彼らは、自分の学校に帰ったときに必ず行うに違いない。教師自身が感動すると、必ず自分の学校でも実践してみたくなるからだ。要は授業の中に教師と生徒の感動をどうやってつくっていくかということなのだ。
ワークショップはこのような微笑ましい形で進み、全体会ではそれぞれのグループが自信満々で、表情豊かなグループ報告を行った。

(1. 薬草の名前、2.薬草が採集された場所、3.薬草の効能、4.その効能や体験したことをどのようなソース(父や近所の物知り、あるいは本から)から得たか、あるいはその薬草で助かったような体験記など)時々あちらこちらにじっとこちらを見つめている視線を感じる。なかなか恥ずかしい。参加者はほとんどが女性だからだ。中には男性もいるが、男性たちは非常にいい表情をしている。そして各グループの発表が始まったが、驚いたことにだれも自分の書いたエッセーの文章は読もうとはしない。その話をすべて、身振り手振りで語ってしまうのだ。だから文章を書いて発表するというよりも、「物語を語る会」になってしまう。「おもしろい話」という課題を出したセッションのところも同じことで、彼らは自分の書いたエッセイの「物語」を読むのではなく、ひたすらに語った。彼らの語り口は熱を帯びてすさまじいものだ。東京の図書館での「語りの会」のように理路整然としたものではない。感情をすべて吐き出すように身を乗り出して語るのだが、聞く方も真剣だ。みんなその世界に引き込まれた表情でいちいち大きくなずいている。なるほど、口承伝承が生きている世界はすごい・・・・と思いながら、「災害の話」を出したセッションのところに戻ってみると、なにかこのクラスの様子が変だ。まず発表者がハンカチで涙を拭きながらしゃべっている。目にはいっぱい涙を浮かべているのだ。そして会場をみると参加者の40名ぐらいもほとんどの者が涙しており、中にはうつむいて顔をあげない者もいる。先ほどの威勢がよかったように見えた他の講師までも涙ぐんでいる。

「いったいどうしたんだろう」と思っていたら、通訳が戻ってきてすぐに理由を語ってくれた。それによると彼女が発表したのは実話の悲劇であったそうで、自分の娘の身の上に実際に起こったことであった。彼女は警察官の夫と3歳の一人娘で暮らしていたが、あるとき3歳の娘が近所で遊んでいて、地中から掘り出されて箱に入れてあった爆発物を玩具にして叩いて遊んでいたところ大爆発し、体中に爆薬の破片が突き刺さったのだという。娘は一命はとりとめたものの雨季になると、彼女の眼球が外に飛び出すという。そのためしょっちゅうそれを目の中に押し戻したり、体中に突き刺さった破片で激痛が走るとのことであった。現在、娘は5歳であるが、手術には耐えられない状況なのでもう少し元気になるのを待って再手術するという。あらましはこういう実話であった。発表者は、実の母親だったので娘の身の上を語った話にみんなもらい泣きしたというのだが、それにしても、みんな語るのがうまい。そう・・この世界には語りがまだ生きているのだ。エッセイに書くよりもすべて語ろうとするのだ。日本のどの教師がこれだけ感動的に語れるであろう。最終日には、こうした彼らの物語がぎっしりと詰まった17冊の本を受け取り、私は心から感動した。そして二つのセッションでは約15冊にものぼる「薬草の話」の本も見た。これが豊かな自然と伝承の生きているシャン州での彼らの生きる姿勢なのだ。創造性の原点はどこにでもある。

閉校式では、みんな素朴な態度で、しかも美しい大勢の教師たちが少数民族の歌や踊りを楽しく披露してくれた。日曜日の休みもなく、たくさんの課題を苦なく果たしていった小学校の多数の麗しい教師たち。最初の緊張からも解き放たれてワークショップを楽しみ、最終日には誰も彼もが別れを惜しんでいた。

長年の軍事政権により、さまざまな抑圧が存在する中でも、各地域の特性を生かした授業の実践は、確実に教師の胸に届いていくものだと実感したワークショップであった。と同時に、教育とは、教師たちの”自由な表現”によって、無限の可能性があることを感じさせたワークショップでもあった。こうした教授法の積み上げが、2001年以来、全国各地の教育大学を通じて行なわれており、こうした自由な授業の創造こそ、軍政による閉塞された暗記教育の世界から子どもたちの思考や想像を自由に解放していくに違いない。しかし、こうした研修を持続的に続けていくことは難しい。なぜ難しいか、それは今後、詳細に書いていく予定である。

とにかく、ワークショップの期間中は、教員の目は、新しい授業に向けて、真夏の太陽のようにきらきらと輝いていた。それはそれは、まぶしかった。かれらこそ「ミャンマーの”自由”と”創造”の未来を作る原点になっていくに違いない。ミャンマーに必ず春はやってくるのだ。 
(S. Tajima)