次世代になにを語り継ぐか!中国の南京虐殺記念館で私が考えたこと
中国の南京虐殺記念館で、わたしはこう考えた、次世代になにを語り継ぐか!
2009年3月24日、私たち3人は、中国南京市の戦争記念館を訪問しました。そして大学の友人を通じて依頼した戦争生存者の体験談などを3時間にわたって聞きました。今年83歳(1927年生まれ)になるという常志さんという男性は、日本軍によって両親や姉妹など10名の家族を子どものときに殺された体験者でしたが、彼の体験談は実に衝撃的なものでした。彼が間近かに体験したことを涙ながらに語られました。
「10歳のとき、家に乱入してきた日本兵に母親と妹が銃剣で何度も突き刺されて殺された」そうです。日本兵に、「お母さんを殺さないで!」と、彼は後ろから兵士の足にしがみついて頼んだ」そうです。しかし日本兵は銃剣で何度もお母さんを刺し続けたそうです。そして死体から、耳輪やネックレスなど貴金属を探し剥ぎ取って行ったそうです。 彼は実に克明に記憶していました。誰だって家族が殺された日のことは忘れないでしょう。こうした体験談は、これまでは他人には話したくなかったそうですが、記念館ができたころから戦争体験を積極的に話すことに決めたそうです。こうした話を聞くのは、日本人としては実に辛いものでした。
これは広島の被爆者の原爆体験なども含め、戦争体験などを直接本人から聞くことは、実に大きな意味を持っていますね。記念館の広大な施設と展示内容を見たときにはさらに驚きましたが、そこで見たことを描写するには何千枚原稿用紙があっても足りませんね。
今日のように南京虐殺が「幻(まぼろし)であったとか捏造(ねつぞう)であったとか言われている時代ですから、日本人の1人として歴史を真摯に考えてみたかったのですが。こうした事実を否定する日本人とはいったい何者なのでしょうか?どこからそういう見解を引き出してくるのでしょうか?私はこれまで南京虐殺の真実について、さまざまな意見を読んできました。政治的なイデオロギーでねつ造されたとか、中国自身の歴史の歪曲であるとか、日本にはさまざまな見解が存在しているのは知っています。歴史の中には、旧ソ連が「カチンの森」という事件で、ポーランドの兵士を大量虐殺したことなど長期間にわたって歴史の闇に葬りさられたような事件はたくさん存在します。
私も、たった一回ほど記念館を訪問したからといって、事実がわかるとはとても思ってはいません。しかし私はこれまで、多くの文献にも目を通し、韓国、フィリピン、ビルマ、パプア・ニューギニア、ラオス、インドなどで多くの戦跡を訪問して関係者の話を聞いたことがたくさんあります。こうした体験のもとに事実を確認したいとも思ったのです。
私が驚いたのは、たくさんの展示品の中に、南京での虐殺に参加した元日本軍の兵士のたくさんの証言があったことです。帰国しても良心の呵責に耐え切れず告白した元日本軍の兵士のたくさんの声が、多数録音されていました。それは日本国内で記録されたもので(現地ではなく)それが相当数に上っているのです。こうしたねつ造などは考えられません。また兵士の従軍日誌などもたくさん遺されているのには驚きました。これには現地にいた欧米人の多数の記録も残っています。また金陵女子大学へ女学生を挑発し慰安婦とするために夜な夜なトラックで出かけていた日本兵の証言もありました。日本ではほとんど公開されてもいないものばかりです。
なぜ日本では、あれだけ膨大な数の日本軍人が南京攻略に参加したのに、肉声すら残すことが出来なかったのでしょうか?現地の人々は膨大な形で証言しているのですよ。 その理由をいろいろと考えてみましたが、それは結局、日本軍人は非常に多くの殺戮を中国大陸で行ったために、戦後は戦犯として処刑される怖れがあったからですね。だから帰国後は誰も彼も一斉に口を閉じたのです。
そして戦場での過酷な戦争体験をもつ父親たちが、自分の子どもたちや家族に一切何もしゃべらなかったのはそういうことです。なぜ兵士であった父親がなにもしゃべらなかったのか、家族の中にも不思議がる人は大勢います。それはしゃべれるような内容ではなかったのです。戦後の日本政府の公式記録でも、中国大陸全体で約1000万人以上の人々が殺されています。中国では2000−3000万人と言っています。南京は当時は中国の首都でしたから膨大な人々が殺されたのは明らかなのです。しかし事実を認めようとしない態度をマスコミなどが形成してしまったのです。その理由としてはさまざまなことをあげていますが、果たしてそうでしょうか?日本軍は、中国人の人体実験をしながら、細菌爆弾を製作したり、いまだに何十万発と言う化学爆弾も中国の地中に残っていてその総数は約200万発と推定されています。(日本側は70万発と主張)。
南京という当時の首都を占領する戦争では、多くの一般市民の目や耳が多数存在しました。なにが起きだれが殺されていったか、彼らはなにもかも証言しているのです。もしこうした戦争が東京や大阪で行われていたら、一般市民の目や耳が苦痛を感じながらも、すべてを記憶し、戦後容赦なく発言していったことでしょう。市民が殺された実際の数字が、30万人であったかどうか、(遺棄された化学兵器の数量が、日本側と中国側が違うように)詳細は不明ですが、仮にその三分の一の数字だったとしても、大変な虐殺を行っていたことを認めないわけにはいきません。
そしてなによりも展示資料の中でショックだったのは、これまで認識しているつもりでしたが、日本の新聞を含め新聞や雑誌などが、戦争中に日本国民をどれだけ徹底して戦争行為へと扇動する道をとっていたかということです。そのためには「中国人」を「チャンコロ」とか朝鮮人を「チョン」とか「半島人」と言って馬鹿にしたり蔑んだりする意識を子どもたちに教育を通じて植えつけていたことでした。もちろんアメリカやイギリスも「鬼畜米英」と呼んでいたのですから。毎日新聞は、日本兵士による「100人切り競争」を一面に掲載して、戦意を煽りたてていたのですから。
そうやって日本軍は、朝鮮半島や大陸への侵略を続け、人々を「下等民族」というレッテルを張り続けていたのでした。そして満州とか台湾とかアジアの権益を奪いに行ったのでした。それはすべて軍部の下に文部省の命令で行っていたことでした。日本は小さな島国ですから、大陸の富はまるで日本の「桃太郎」が鬼が島へ鬼の征伐に行くようなものでした。金銀財宝(石油、石炭、豊富な鉱物資源)などを有り余るほど、持ち帰ることで、大陸への侵略を行っていたのです。私の父が亡くなったときに、遺品の中には大陸から持ち帰ったと思われる「珊瑚」があったことを思い出すのです。
こうしたことを煽った教育とマスコミの罪とはたとえようもないほど大きなものです。そうした当時の日本の新聞や雑誌などが、この虐殺記念館には展示されているのです。そうした出版物が、現在、日本のどこかの博物館に展示してありますか?きちんと保管してありますか? はい、それはみな隠してありますね。みな廃棄して忘れようとしていますね。これが日本の歴史教育の実体や出版の歴史ではないでしょうか?それは残念ながら、今も続いているのです。
私には、ひとつわからないことがありました。それは日本の軍人たちは、戦争中に女性を強姦した後、必ず事後に彼女たちを殺しているのです。「なぜなんだろう?」と思っていましたが、それは展示写真を見ているうちにわかりました。それはつまり被害者の口を封じるためだったのですね。当時、日本軍の軍事侵略は、欧米や国際連盟からも非常に厳しく批判されていましたから、そうした暴行などの証拠は極端に隠そうとしたのでしょう。国際法廷で取り上げられることを恐れていたのですね。つまり幼い児童などが暴行された後、両親や人々に自分の身の上に起きたことをみなしゃべったとしたら、どれだけ人々の憤激をかうことか、そうしたことを考えて、すべて証拠は消してしまうということを実行していたのですね。
だからそのことの意味がよくわかりました。勝ち戦ではなく、負け戦だったのですから、少しでも大陸で行った残忍なことをしゃべって発覚することを怖れたのですね。ですから戦後口を開いた元日本軍兵士は、自分がもう処罰されないことを確認してから、良心の語りを始めたものと思われます。
寺元重平という元兵士は、彼の中隊長が出した命令「強盗、強姦、放火、殺人、なんでもやれ!」をひたすらに実行していたことを証言していました。展示品には、見るに堪えられないような遺物がたくさんありました。
南京の大学での教育ワークショップが終わって挨拶した時、私は、「皆さま、ますます発展する南京の地で、ワークショップを開催できたことを心から感謝します。明日は、南京虐殺祈念館を訪れます」と述べた後、絶句してしまった。涙が出てきて言葉にならなかったが続けて、 「私は戦後に広島に生まれた日本人の1人として、戦争を知らない日本人の一人として、かって日本が中国に侵略して悲惨な戦争を行ったことに対する謝罪のためです。日本では、一部の政治家を除いて、多くの人々は、中国でかって大変残虐な戦争を中国で行ったことを心から謝罪しており、大変申し訳なく思っています」」
と発言したところみんな静かに聞いていましたが、涙を流しながら聞いている学生たちの姿も見受けられました。若い通訳の大学院生が静かに口を開きました。
「これまで私は、日本人に対して、反感とともに複雑なものをいつも感じていました。それは南京での虐殺を始め、多くの虐殺のことでしたが、しかしこうやって戦争を体験していない戦後の日本人が南京までやって来て謝罪する真摯な態度に接して心を動かされました。南京を思って下さるだけで十分です。あなたが謝罪のことをしゃべって下さる間中、見てください。参加者の多くの女子学生たちは目に涙を浮かべて聞いていたのです。」
と語ったことは決して忘れられない思い出でした。
彼はきっぱりとした口調で言いました。「私たちは、すでに日本人の戦争行為を許しています。でもこうした残虐な戦争があったことだけは決して忘れません。あるとき、日本の政治家が南京にやって来て言ったことがあります。「もう残虐な戦争のことは忘れてください、未来こそが大切なのです。未来志向をしましょう。」と言いました。これには南京市のだれもが怒りました」。 「踏まれたことのない人間には、踏まれた人の痛さや辛さはわからない」のです。
それから、25日と26日はD車という新幹線に乗って、風景明美で歴史の故郷(ふるさと)の杭州に行き、西湖や霊隠寺などを見学しました。仏教文化は、隣国のインドから中国へ直接入ってきて、インドの僧侶が直接名刹を全国に開山していますから、中国の壮大な歴史遺跡には全く言葉がありません。中国からは仏教は消えたのかと思っていましたら、多くの若者たちが寺院で祈っている姿はとても印象的な風景でした。
15年前、25年前に中国を訪れたときに比べて、世相は大きく変わっているのでした。霊隠寺では、境内に空海の像が建立されているのを見ましたが、中日友好三十年の碑文の日の墨文字がいたずらによって消されているのを目にしました。悲しかったですね。靖国発言や南京の問題などが、心無き観光客を憤激させたのでしょうか。現代の日本の政治家たちの歴史認識が、中国から多くを学んで帰国し日本の仏教を興した名僧空海の存在まで汚しているのですから。
これは霊隠寺に申し入れて、早速墨で書き入れていただきますが、きちんと謝罪すべきは謝罪し、申し入れることは申し入れる姿勢が何よりも必要だと思ったのです。アメリカ議会が、戦争中に在米の日本人を収容所に入れたことを謝罪して、補償までも行ったこと、ドイツのように「戦後生まれの経済界に属する人々でも、戦前にドイツが行った戦争犯罪には、どんなに高額でも補償や謝罪を行う「責任があるということが歴史の中での真摯な態度です。人間は過ちを犯す存在です。しかし過ちは、素直に反省することが人間の進化をもたらすのです。
日本人は歴史の中での異民族との軋轢の意味をもっと深刻な意味でとらえておかないと将来同じような行動を繰り返すことでしょう。ドイツのワイツゼッカー前大統領は、 「過去に目を閉ざす者は、未来に対しても盲目である」と言ったそうですが、まるで日本について語った言葉ですね。
上海空港から市内まで、時速430キロを出すリニアモーターカーが運行されていました。これはドイツが日本と競い合って落札した巨大なプロジェクトでしたが、ドイツの会社が請け負ったのです。これはほんの一例です。巨大な国の経済を担う中国の青少年の意識は、日本には向いていないことを感じました。歴史の中で真摯に生きようとしない民族には未来はないのです。事実を明確に認め謝罪しながらも、深刻な環境問題や中国の軍拡やチベット問題などを厳しく批判できる立脚点が、日本人には何よりも必要だと感じた中国への訪問でした。
それにしても中国の3月の桜の花や杏の花は、美しい!
杭州で霞に煙る西湖の美しかったことー空海も満開の花の中で中国での青春を過ごしていたことでしょう!
空海が、日本人による南京虐殺を知ったらなんて言うでしょうね?!
(2009.5.17 UP)