シルクロードを風のように旅して得た結論とは?!

20代のとき、ドイツのミュンヘン駅をオリエンタル急行の夜汽車で出発し、トルコに到着し、それからイラン、アフガニスタンパキスタンを経てインドまで汽車やバスを乗り継いで陸路を旅したことがある。それはシルクロールートをヨーロッパから逆にたどったものなのだが、2ヵ月後、インドに無事に到着、私は西ベンガル州タゴール国際大学のあるシャンティニケタン(平和の地)で2年間暮らした。

滞在中、二階の窓から見える砂漠状の大地を見ながら夢想しながら書いた物語は「さばくのきょうりゅう」という作品だった。この物語はインドでは15言語で、アジアではほとんどの国で翻訳出版された。これは砂漠をいくラクダの隊商の仲間たちが、油の売上をめぐって権益争いをする話。この内容は中東の現在の争いと酷似している。

考えてもみれば、シャンティ二ケタンの砂漠では、タルガーチと呼ばれる高いヤシの木が、いつも風の中で音をたてて揺れていた。あれからいったい何年が風のように過ぎていったことだろう。思い起こすたびに人生の過ぎ行く時間は迅速だと感じる。しかし私は今もシルクロードを旅しているような気がする。どこを目指して歩いているのだろうか?


1975年、ドイツからオリエンタル急行に揺られてはるばるとトルコの地に着くと、そこにはアジア大陸が広がっていた。東西文明の十字路ともいわれるイスタンブールで、私が目にし、耳にし、臭いをかいだのは、ヨーロッパ社会の時間や空間とはまるで異なった、ごちゃごちゃとした活気ある世界や生活であった。あらゆるものが生(なま)の形で動いており、生き、笑い、愛し、哀しむひとびとのアジアの生活がそこから広がっていた。

南の国特有の灼熱の太陽と、照り返す路上の熱気のなかで、ひとびとのすさまじいかけ声、ののしりあい、叫び声などを聞いた。イスラム教のモスクからは、コーランの祈りへの呼びかけアザーンが天空にこだまし、何百年も全く同じ鉄のハンマーで打っていたのではないかと思えるかじ屋のハンマーの音。羊の腸に水を入れ運ぶ黒い服装の男たち。きゅうりを十字にさいて、塩をふりかけ、それを片手にもって売り歩く少年たち。黒煙を吐きながらけたたましく走りゆくポンコツ自動車……。

およそあらゆる存在が、生きのびようと必死にもがき、自分の存在を容赦なく主張している。しかし私は鼻の穴を黒くさせながらも、全身でホッとするくつろいだ感じをもっていた。この世界は、ドイツやヨーロッパで感じた、いかにも文明人らしくかまえることもない、きびしくきめられた姿勢や役割りを行儀よく演じることもいらない、ただ人生に自然に参加してゆくだけで十分な空間だったのだ。
つまりアジアへの入口で、私は、ヨーロッパの時間や空間と違う実にくつろいだ人間的なスペースを感じたのだ。あとでふりかえる時、このごちゃごちゃとした明るく生き生きした体験は、じつに幸せなアジア体験のはじまりではなかったかと思える。

ドイツやフランスで感じた冷たく暗く長い冬のなかで、ヨーロッパがもっているある種の冷たさは、一体どこからくるのかと、終始考えていた。ミュンヘンの雪の朝には、トルコ、ギリシャユゴースラビアなど南の地からやってきた黄色いゼッケンを着けた外国人労働者が、悲しげな表情で雪かきをしていた。そのそばを毛皮をはおったひとびとは、高級車のベンツで静かに通りすぎてゆく。ヨーロッパはたえず、気持ちのいい空間を求めていた。外国人労働者を使って、いかなるものを犠牲にしてもだ。ドイツの犬は、余りにも行儀が良かった。オペラ見物に連れてゆかれても、調教が徹底していて、人間以上のきちんとした態度で鑑賞している。これは驚異。犬は吠えるものだということを忘れてしまっている。

ミュンヘンの街角でみかけた上品な骨とう屋。ショーウインドーのなかには、世界各地から集められたアンティークの人形が無表情に大きく目を見開き、買い手がつくのを待っていた。そこには、インドネシアの農村から運ばれた大量のワヤンクリ(影絵人形)が無造作に積みあげられていた。これだけのワヤンクリが村から運び去られると今、その村では影絵は消えてしまったことだろう。今や文化財は投機の対象となり世界中で買われて、売られていくのだ。

いろいろな体験を漠然と考えながら、トルコのイスタンブールから黒海を船で横切ったとき、船中でトルコの落下さん部隊に所属する兵士がさかんに落下さんで飛びおりる時の話をしてくれた。千人ぐらいが空から飛びおりると一人や二人はパラシュートが開かなくて大地にたたきつけられて死ぬという。そう言ったあと、兵士たちはみんなでけたたましく大笑いした。そして、そのあとは急にシーンと黙りこんでしまった。重たい沈黙。彼らは兵役が終わったら、郵便局の配達員やパン屋の親父になって故郷で働くといっていた。人生を夢見ている若い兵士たち。

けわしい山岳地域のイランを越え、アフガニスタンへと一人旅はつづいた。とつぜん、砂漠に銭湯の煙突のようなものが見えてきた。これは工場地帯かなとおもっていたら、ターバンを巻いた老人が、あれは古いモスクの尖塔の遺跡だと教えてくれる。焼けつくような砂漠のなかで、ひとふさのぶどうをくれた親切な老人―それにしても一人旅とはじつにさまざまな事を経験させてくれる。この尖塔のあった地名は、へラートだという。このヘラートという古い町は、後年、タリバンアメリカ軍との壮絶な戦いが行われてて、街のほとんどが完全に破壊されてしまった。


イランの山中の茶店で、ホンコン映画のスター。ブルースリーを夢見るイランの青年たちから、「あなたはブルースリーで有名な日本から来たのか?」と質問を受けた。ブルースリーは、香港なのだが、まあどちらでもいいだろうと「イエス、イエス」と答えていたら、突然その男から決闘を申し込まれた。ハハハハハ、私はオタオタ (笑)。

私はブルースリーの国ではなかったので、決闘は丁寧に回避した。「実は旅で疲れているから・・・またあとでね・・・・ハハハハ」いろいろなことがありながらも、インドへ、インドへと陸路の旅をつづけた。インドへ向かった理由は、実はインドの詩聖とも呼ばれるロビンドロナート・タゴールが設立したシャンティニケタン(平和の地)があって、そこの学園で哲学を学ぼうと考えていたのだ。その地では大きな菩提樹バニヤンの木の下で、生徒が円形になって師の教えを聞きながら伝統的な授業がおこなわれている。そこには教育の理想があるのではないかと思った。

私は、ロビンドロナート・タゴールがかつて呼びかけた“人類の岸辺に集まれ”という呼び声に応えて、はるばるシャンティ二ケタンの地までかけていったわけだが、しかしいつの時代でも学園とは、うつわや形だけで成立するものではない。人間らしい人間がいて、つまり中身があってはじめて成立するものだけに、タゴールなきあとの魂のぬけた哲学の講義には何の興味ももてなかった。

そのためベンガルの農村地域を歩き回るのを私の日課とした。ベンガルの村には、ベンガル人とは違うサンタールという先住民族である少数民族が住んでいた。私は、サンタ―ルの人々が持っている生活様式や生き方から、大きなものを感じた。それは自然とともに生きる人々の姿。後年、この学園の出身者である芸術家のA.ラマチャンドランと知り合ったとき、彼も同様のことをしゃべっていたが、サンタールの文化に触れて、私はかってタゴールが目指したシャンティニケタンの魂に触れた気がした。

インドの多様性とはすごい。言葉は州言語だけでも15ぐらいあるし、公用語もヒンズー語や英語、そして民族の多様さは東西南北の顔がある。宗教といってもヒンズー教、仏教、ジャイナ教イスラム教、ゾロアスター教シーク教、などが混沌として共存し、インドはじつに興味深い世界であった。人間と自然が、伝統と現代が、混然一体となって生きている。もちろん相互間の摩擦は深刻であった。ドイツでは犬も人間もしっかり区別されていたが、インドでは区別は存在しないが、カースト制度という差別構造が村の生活のすみずみまで根を下していた。

憲法では、カーストを制度を禁じても、そのなかで声にならない声を出して叫んでいたのが少数民族のサンタールのひとびとであった。しかし彼らは、誇りをもって古代からの無限の時間のなかを豊かな文化とともに生きつづけているようにみえた。しかし一般のベンガル人は、彼らに厳然とした差別意識をもっていた。アンタチャブル以上に、少数民族は差別されているのだ。そしてバウルという吟遊詩人の存在も知った。一絃琴を手にもって、家々を周り歩く人々なのだが、誇り高い放浪する吟遊詩人とも云えようか。

私が住んだロトンポリという地域には、赤茶けた砂の砂漠が広がっていた。毎朝太陽が昇るとその砂漠を、就学できず、家系を助けるために働いている六歳から八歳ぐらいの子どもたちが牛や山羊を連れてやってくる。片手に小さな竹の笛をもち、その音色が響いてくると、私はきまって砂漠に飛び出した。そして子どもたちと一緒に「砂漠の学校」なるものを始めた。それは雨上がりの後、砂漠で見つけた良質の粘土で、牛ややぎなどさまざまな動物を創るものだった、タゴールが自ら作詞作曲した歌を歌ったりしてのんびりと暮らしていた。砂漠の子どもたちが、生まれてはじめてつくった牛や山羊は、子どもたちが生活のなかで家畜を知り尽くしているだけにじつに感動的。粘土のかたまりは、彼らの手にかかるとたちまち命のかたまりのように表現された。

またある時、町で買ってきたベンガル語版の美しい絵本を子どもたちに見せたことがある。絵本には、満月の晩、白象と黒馬が月の光を浴びながら楽しく踊っている絵が画かれてあった。その絵本を子どもたちにみせると、子どもたちは、まるで魂でも奪われたかのように見入っていた。



やがてインドでの滞在を終え帰国し、私はACCUというところで、アジア地域のユネスコ活動に参加したとき、「本の飢餓」に苦しむ子どもたちは、インドだけでなく中国やベトナムやイランやモンゴルなど、ほとんどのアジアの国々において深刻な状況にある事を知った。そして私は、アジア・太平洋地域25か国と共同で児童書や絵本や識字教材などを多数共同開発に従事し、識字事業を開始することにした。
1990年の国際識字年には、世界160か国の協力で学校にいけない子どもたちのための絵本(『なにをしているかわかる!』を刊行した。これらの事業を通じてこの世で最も美しい絵本は、この世で最もこれを必要としている子どもたちにまっ先にとどけてゆく事が必要だと痛感した。

しかし、アジアやアフリカなどの現実はきびしい。今学校にいけずに文字の読み書きのできない子どもたちは激増している。アジアには約7億人にのぼる文字の読み書きのできない大人がいるが、就学できない児童は1億人にのぼっている。その数は人口爆発により激増している。大人の文字の読めないひとびとが増加することは、父母の生き方がその子どもに大きな影響を与える。飽食の日本の現状からどうしても見えないさまざまな現実がアジアには深く広がっている。どのように日本の子どもたちに、この光と影を背負ったアジアの現実を伝えてゆくか。二十一世紀とは、私たちは大きな責任と課題を背おっている。

私は一つの夢をもっていた。ドイツやインドにいた時、書きためていた創作童話を出版する事、1988年に英文”The Legend of Planet Surprise”(「びっくり星の伝説」)を自費で刊行した。これからのアジアの子どもたちに自分の感じたメッセージを寓話のスタイルで伝えたかった。驚いたことにこの本は2年もたたないうちにアジアの10か国で15言語で翻訳出版されていった。ラオスでは、この本を刊行するために募金運動がおこり、2万部が無償でラオスの小学校に配られた。タイでは5万部が刊行され、マレーシアでは国立文学研究所(デワン・バハーサ・ダン・ブスタカ)で700名の人々が出版記念会を開いてくれた。

私は喜びで胸がはりさけるような嬉しい気持ちだった。するとラオスベトナムの友人が言った。
「あなたの物語りには、私たちの人生や生活が生写しになっているのです。あなたの物語というより私たちの物語なのです」彼らの言葉を思い返す。「びっくり星の伝説」のなかで描いたことは、「人間の手と言葉がつくり出した歪な文明の意味を表現してみたかった。あふれる言葉と何ともいいようのない巧みな人間の手で、一体いかなる世界を創り出しているのか。人間は、幸せになることよりも不幸せになるものばかりをつくり出しているのでは・・・・・人間の創造とはいったいなにか?


アジアは今大きな変動のなかにある。21世紀を生きていく子どもたちにアジアの現実を、その光と影をどう伝えてゆくべきか。かつてシャンティニケタンの地でこう考えたことがある。児童文学に関係している人々よ!口にくわえて食べている子どもたちを、一刻も早くテーブルの上にもどせ。いやテーブルの上ではなく、土の上に、自然の上に、思い切り返しもどせ。自然のなかにいてはじめて子どもたちは、子どもらしく、そして人間らしくなる。

「自然に生きることこそ、人間は学ばねばならぬ。」と、シルクロードを風のように旅して得た結論だった。