津波で、古来からの言い伝えが多くの生命を救った

津波が押し寄せた三陸海岸で、古来からの言い伝えが多くの生命を救ったという。

その1:津波が来たときには、自分の命を救うことだけ考えてすぐに逃げること。家族のことや友人などのことを考えていたら、探しているうちにみんなが津波の犠牲になったことの教訓から、それぞれの命はそれぞれが守るということを徹底した。そしてみんな助かった村がある。それは東北地方の言葉で「津波てんでんこ」という。「てんでんこ」とは、「てんでばらばらに」という意味である。つまり、津波が来た時には、家族や友人のことは一切構わずに、みんなそれぞれ”てんでばらばら”に、一刻も早く逃げなさいという教えなのだ。

災害では、家族同士が助けあったりするが、共倒れになること多い。一人ひとりが「てんでんこ」になって、少しでも高い所に逃げることーこれが最上の教えという昔からの伝承である。読売新聞には、釜石市の小学生が、この言い伝えを守り高台に登って助かった記事が掲載されている。http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110328-OYT1T00603.htm?from=y10


その2:津波は、一回だけでなく何度もやってくる。一番最初の津波が一番高いとは限らない。二回目や三回目に、より大きな津波となって押し寄せる。今回の三陸海岸で、最初は0.5メートルの津波だったが、2時間後に2.5メートルの津波が襲ってきて人も亡くなり、町が破壊された。警戒警報が解除されるまで、安心して絶対に帰宅してはならない。
さらに、津波は海岸から離れた場所では低く見えるのでついつい安心してしまうが、津波の勢いは、陸地に近づけば近づくほど急に高くなって人家に襲いかかる。沖の波が低く見えるからといって油断していると大災害を招く。


その3:古来からの言い伝えをもとに、高い堤防を築き、今回の津波から村を救ったこと。堤防を築いた当時は、みんなの反対を受けたが、村長は譲らずに、港に15、5メートルの堤防を築いたという。こうした村長の知恵で、この村からは一人の犠牲者も出していない。これは見習うことの代表だ。

津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある普代村は、高さ15メートルを超える防潮堤と水門によって、村内での死者数はゼロであった。計画時には「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長は、言い伝えを守って「15メートル以上」と譲らなかった。

その4:船に乗って沖に出ているとき、津波が来たらどうするか?そのときは港に向かって逃げ帰るのではなくて、津波に向かって、まっしぐらに船を走らせ、少しでもより深い海に漕ぎ出すことによって、津波を乗り越えることが出来るそうだ。津波は浅瀬であればあるほど勢いを増すから、逃げては犠牲になってしまうのだ。

その5:伝承されてきた知恵によって、さまざまな自然災害を乗り越えていくことができる。これは人間の古来からの知恵である。今回の津波を教訓として、次世代や国境を越えてその知恵を残していかなければならない。

しかし原発のような人災は、伝承だけでは乗り越えることができない。「生きることについて」は、常に新たな知恵やスキルを磨いていく必要がある。伝承と同時に、人間が作り出す人災に警戒を怠ってはならない。






明治の教訓、15m堤防・水門が村守る…岩手
 津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある普代村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。
 村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。「これがなかったら、みんなの命もなかった」。太田名部(おおたなべ)漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。

津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。

防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。





 村は1896年の明治三陸津波、1933年の昭和三陸津波で439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。

普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。

(2011年4月3日22時05分 読売新聞)