パキスタンのカスールでは深刻な水汚染が続いている。

私たちパキスタンカスール市の者たちは、たいへん深刻な状況に直面しています。カスールの町とその周辺の村々は、観光地として知られていました。他の町から多くの人々がピクニックに訪れたり、伝統的な料理を味わうためにやってきていました。カスールは歴史的な町であり、この町に住む人々は「カスーリ」という名称をカースト名として用いるほどです。外務大臣のフルシド・メームド・カスーリ氏もカスール出身者です。

 なぜ人々は自身の名前に、誇らしげにカスーリと含めるのでしょうか。これはカスールの輝かしい過去の歴史と関係しています。カスールは宮殿と庭園の町として知られていたのです。この町の水は、薬として珍重されさえしました。つまり他の町の人々が病気になると、民間療法の治療師たちは患者たちにむけて、カスールに数日滞在しカスールの水で薬を飲むようにと勧めるほどでした。カスールの家々では伝統的に、土製の壷に水をためて一晩置いて、翌朝ひんやりして甘く、消化も促進する水を飲んだものでした。また朝ご飯としてこの水を1杯か2杯飲めば、肝臓や腎臓を患うことは一切ないともいわれていました。


この話はたいして昔の話ではなく、わずか約30年前のことです。私たちカスールの市民は以前は、他の町の親戚や友人たちに、贈り物として土製の壷に水を満たし送ったものでした。カスールの水には自然のミネラルが豊富で、トニックとして愛飲されていました。しかし今日、これらの話はもう存在しません。私たちの水はもう飲むことすらできません。あらゆる面から考えても、人間が飲めるような水ではなってしまったのです。また農業にも用いることができない水で、ある種の毒になってしまいました。今では他の町の人がカスールを訪れても、飲ませる水がありません。私たちが仕方なく飲んでいる水以外は。

カスールの人々はお客さんのことを神の祝福と考えます。家に客人があれば、最良の食べ物と飲み物でもてなしたいのです。特に遠来の外国からやってきたお客さんには、なおさらのことです。ですからここにもおられる私の日本の友人に申し上げたいです。近い将来に私たちの水はきれいになり、友人たちを家に招き楽しみ喜んでもらえるよう、心から願っています。

カスールの住民が直面している水の問題の原因は三つあります。第一に皮革なめし産業であり、第二に町の汚水の池、第三が砒素の問題です。最初の二つは人災で、第三は自然からの罰なのかもしれません。

カスールの皮革業について少しお話したいと思います。この仕事は何百年もの間、伝統的なやり方で小規模に行われ、この作業に従事している家は、何軒かでした。彼らは植物性の材料でなめし作業を行ってきたため、環境を破壊することもありませんでした。皮革の彩色には、アカシアの葉が用いられました。カスール産の靴はインド中で売られ、多くのマハラジャや王たちはカスール産の靴を誇らしげにはいていたのです。

1971年には9軒しかなかった皮革なめし業者は、1981年になってもそれほど増えず、カスールの主要産業は綿織物業でした。しかしヨーロッパから皮革なめしの機械と化学薬品が輸入されてからというもの、カスールの皮革産業が急速に発展し、多くの政治家や企業家がカスールに皮革なめし工場を建設していきました。皮革なめし工場は急増し、1995年には120軒の工場ができ、2000年にはそれが180軒に増え、2006年には大規模なものとそれほど大きくない工場も含め240軒をこえるほどになっています。これらの皮革なめし工場では良質の皮革が生産され、製品は全世界に輸出されて、パキスタンの輸出額の第三位をしめています。2000年にはカスールはカラチに次いで、第二位の皮革生産地でしたが、今では第一位をしめています。

興味深いことに、企業や工場のオーナーたちや経営者たちのほとんどは、カスールの住民ではありません。カスールを支配しているのが、カスールの住民ではないために、彼らはカスールの町に起こった問題に関してはほとんど無関心でいられます。ラホールや他の町からカスールにやってきているのです。朝カスールに来る時に、自分たちの分の水や食べ物を携えてやってきます。空調のきいたオフィスで仕事の指示をしますが、労働力として実際に作業にあたるのは地元の人間です。多くの労働者は近隣の村からやってきますが、カスールの労働賃金は安く、容易に働き手が確保できます。

 皮革なめし業に従事している労働者は1万人以上にのぼり、つまり1万世帯がこの仕事で生活しています。少なくとも3万人が、皮革なめしに関連する何らかの商売についているといえます。例えばなめし工程で使われる化学薬品の売買、皮革材料の売買、そして製品の他の都市や国々への販売や流通に携わる者です。高級品は外国に輸出もされています。

 皮革なめし工場ではその工程で多くの薬品や水が必要とされます。平均で毎日250トンもの化学薬品を含んだ排水が周囲に流されており、これが何年も続いています。一日にして9千立方メートルもの産業排水がだされるので、3年前にはこうした産業排水が流されて続けたため、三つのまるで湖のように大きな池がありました。1985年からはこうした排水のたまった巨大な池のために、町中の地下水が汚染されてしまいました。カスールの人々は飲み水を、こうした地下水に頼っていたのです。

このためカスールの人々は大気汚染と皮革なめしによる地下水汚染のために、様々な病気を発症してしまいます。1988年にはこの問題が深刻となり、カスールの町の破壊の責任を負うべき、政府機関、地元の行政、皮革なめし工場のオーナーや経営者らに対して多数の抗議行動が行われました。しかし彼らは一切この問題に取り組もうとはしませんでした。政府機関、政治家そして企業家らは一丸となって自分の利益を守ろうとし、一般の市民はそれに対して無力でした。カスールの住民はその声をあげるには、十分には組織されていなかったからです。まとまることができずに、市民たちはいくつもの異なるグループに分かれてしまいました。それぞれが多くの抗議行動を行いましたが、問題解決にはいたりませんでした。

1989年、国連機関がカスールにおいて環境リスク調査を実施しました。この調査によると少なくとも5万人の住民が、皮革なめし業によって、ガンになる高い危険性にさらされていることが指摘されました。しかし政府はこの警告に耳をかすこともありませんでした。そして今日ではカスールにガン患者が急増しています。特に子ども達がもっとも大きな被害をうけています。私たちの闘いは続いていますが、政府機関に効果的に圧力をかけることは困難でした。というのは、政府はほんとうの危険についても一切事実を公表することがなかったからです。町の飲み水の水質状況についても、政府はそれを住民に知らせることはなく、私たちはどのようにこの問題を解決していっていいものか途方にくれていました。

しかし1995年の終わりに、カスールの問題を認識していた、マリク・メラジ・カリッド氏がパキスタン首相となったのである。氏はアティック・ウル・ラーマン博士と日本の森下教授による調査を知り、二人から問題の詳細をききその解決方法について討議する機会をもった。ラホールの政府迎賓館で行われたこの会合はその夜テレビでも報道され、これを見たカスールの人々は喜びに沸き立った。というのはメラジ・カリッド首相は非力で貧しい人々の問題の解決に、誠実に尽力してきたため、パキスタン人は氏に対して畏敬の念を持っているのである。

メラジ・カリッド氏は元々法律家であり、私自身も弁護士をしているが、学生時代から大きな感化を受けてきた。氏は首相の職を辞してから、カスールで新たに設立された、私たちの「市民社会ネットワーク」という団体の初代会長に就任してくれた。残念ながら氏は亡くなったが、その遺志はひきつがれており、「市民社会ネットワーク」はパキスタンNGOとして正式に登録された。

市民社会ネットワーク」ではカスールにおいていくつもの国際セミナーを開催し、カスールの問題を国際社会にアピールした。こうした圧力のおかげで、パキスタン政府は、アジアで第二の規模となるはずだった、排水処理施設建設の計画を開始した。その予算規模は1千万ドル以上であった。その当時の首相、ベネジル・ブット元首相が起工式に参加し、夫のザルダリ氏が当時連邦政府の初代環境大臣であった。(驚いたことに2008年9月7日現在、ザルダリ氏は、ムシャラフ大統領の後、PPPからパキスタン大統領に選出されている。彼はMr.10%という悪名高い名前が付けられていた)しかしこの処理施設の建設に地元はまったく関与させてもらえず、カスールの本当の問題はプロジェクトから除外されてしまった。つまり住民の健康、社会的影響、飲料水の確保の問題は、このプロジェクトでは扱われなかったのである。汚職が行われたためオランダ大使館ノルウェー大使館は、このプロジェクトへの資金援助をうちきり、このプロジェクトは大失敗に終わるだろうと告げた。というのはこのプロジェクトでは、カスールからでる排水や廃棄物が、単に他の町や村に移るだけになってしまうというのである。

そして現実はその言葉どおりになった。今日この処理施設は失敗の象徴ともなっている。水から有害な化学物質を取り除くのに役立たないばかりか、汚染された排水は農業用水として使われ、また川にそのまま流されて人々はそこから魚をとって食べている。これはカスールの町の大惨事なのである

こうしたことが次々と拡大しているにもかかわらず、パキスタン政府の環境保護機関は、汚染の元凶をつくりだしている企業や工場操業者たちに対して、何ら法的な措置をとることもしなかった。我々は政府に対してもあるいは企業家に対しても、すべての望みを失ってしまった。多くの政治家は汚職にまみれ、環境破壊のビジネスの一翼をになっているのであり、一体どのようにして私たちの環境を改善していけるのか、その道筋がまったく見えなかった。。



しかしカスールの住民はだからこそ、問題解決にむけての第一歩をふみだす決心をした。そして日本の科学者たちの協力をえて、カスールの町に関する基本的な環境情報のデータベースを構築することができた。

このおかげで、飲み水に適したよい井戸水とは何であるかを知った。またどのような病気を患っている患者がこの地域にいるのかについても情報を集めることができた。このため現在では私の環境問題の実態について、政府の環境保護局よりも我々の方が多くの情報を持つにいたり、この政府機関がカスールの水質報告を行わなければならない際には、我々に協力を求めてくるようになった。

このように我々は10年間にわたって格闘してきたが、これは簡単に述べられるような道筋ではなかったといえる。
最後に次の四点について皆さんに提起しておきたい。

(1) 前回のカスール住民健康調査は2001年に行われた。それから5年が経っており、新たにカスール住民の健康調査の実施に協力をお願いしたい。
(2) カスールの住民のために飲料水用フィルターシステムを設置するための具体的なステップをとっていかねばなりません。このための技術的な協力を要請したい。
(3) 市民コミュニティ委員会(CCB)の計画のもとで、フィルターシステム普及のための経費負担の計画ができている。つまり市民社会ネットワークが20%を支払い、地方自治体が80%を負担する仕組みとなっている。
(4) カスールに環境ラボを設置したいと考えている。市民社会ネットワークがそのための土地を入手済みで、建物建設工事が始まっている。このラボの設備に関して専門的な協力を要請したい。様々な備品や機器が必要であり、この分野の協力が欠かせない。


カスール市民社会ネットワーク代表、弁護士
ラジャ・ムハマド・ユナス・カヤニ

(2006年東京工業大学での講演から)